夏の逝く日の風に乗り

さあ明日は出発だ

そこらあたりからしのび倚つて来る風よ

赤蜻蛉よ待つておくれ まつてくれ。

 

吾が部屋の 故郷のデッサンを 一枚 一枚 壁

からおろすのだから

旅立ちの日 心の重くならぬやう

小さなピンでもちくりとさせば痛いのだから。

 

一枚 一枚 ゆつくり眺めたいのと

つくつく法師のせはしい時と。

 

棕梠の木の繁りのなかから

蝉がしぐれて遠く近くに

日々の花火は鮮やかに散つた。

 

ふるさとのひとなつは 午睡のなかに

迷ひ込み

遊び道化てお芝居ばかり打つてゐた。

 

とある日の真昼時

白い窓から ほゝゑみかけて来たひとがある。

ハーモニカを吹いて呉れた。

花弁の静かな昼顔の花。

 

午睡のなかで

あれは……と尋ねるおまへに ひとゝきのまたと

ない真実を見せて 私よ にごつた笑ひ

のなかで おまへの喜びは悲しいばかり。

 

淡い日の照らす町の涼台で

私よ 遊び道化てお芝居ばかり打つてはゐたが

あのひとの 思ひをこめた心根の美しく

おまへは白銀の針をさゝれて

影のやうに泣いて軒場にきえた。

 

夏草のうたふ山を

鳴く虫も青い庭を

月は夜毎にのぞいて越えた。

 

白い窓に流れてくる青空も 花火の音はらんで

今日はお祭りなのだから

繭売つた百姓達もぞろぞろと来るのだから

少女達も浮かれてゐるのだから。

 

古い街もはずんで 遠い山

山あひの湖の夏草よ おまへは知つてゐる

ひとひ 桔梗夫人の湖に鏡した瞳の色を 岸づた

ひ白いミルはおまへのしとねにはづんでゐた。

昼顔の花よ 小向日葵よ 花々の少女達よ さよなら。

 

笠美波

「夏の逝く日の風に乗り」所収

1944

にわとり

――おかあさん  よう

またあのにわとりが鳴いている

どうききなおしてもやっぱりそうだ

おかあさん  よう  と鳴いているんだ

濁りある  そのくせ遠くひびくこえで  愬えるように鳴くんだ

小雨のふっているらしい真夜中

低い雨だれの音が時々するから

 

いったい  にわとりというものには

人間の魂が封じこまれているのではないか

不幸な  やぶれた翼のような魂が

方々の天の下にこの鳥がいて

応えられることのない愬えの声を張りあげているのだ

おとうさん

というのも方々にいる

いやだなあ

あの絶望的な声の呼び方は

それどころではない

たかはしさあん  というのがたしかにいる

たッかはしさん  という風にいやに「か」にアクセントをつけて呼ぶのだ

この夏一寸葉山へ行ったら葉山にもいるんだ

あの声に呼ばれると  僕はますます痩せこけて

細長くなるような気がする

 

高橋元吉

「耶律」所収

1931

公園の椅子

人氣なき公園の椅子にもたれて

われの思ふことはけふもまた烈しきなり。

いかなれば故郷のひとのわれに辛く

かなしきすももの核を噛まむとするぞ。

遠き越後の山に雪の光りて

麥もまたひとの怒りにふるへをののくか。

われを嘲けりわらふ聲は野山にみち

苦しみの叫びは心臟を破裂せり。

かくばかり

つれなきものへの執着をされ。

ああ生れたる故郷の土を蹈み去れよ。

われは指にするどく研げるナイフをもち

葉櫻のころ

さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。

 

萩原朔太郎

純情小曲集」所収

1925

日比谷

強烈な四角

   鎖と鉄火と術策

   軍隊と貴金と勲章と名誉

高く 高く 高く 高く 高く 高く聳える

 首都中央地点——日比谷

 

屈折した空間

   無限の陥穽と埋没

   新しい智識使役人夫の墓地

高く 高く 高く 高く 高く より高く より高く

 高い建築と建築の暗間

   殺戮と虐使と噛争

 

高く 高く 高く 高く 高く 高く 高く

  動く 動く 動く 動く 動く 動く 動く

日 比 谷

彼は行く——

彼は行く——

   凡てを前方に

彼の手には彼自身の鍵

   虚無な笑い

   刺戟的な貨幣の踊り

彼は行く——

黙々と——墓場——永劫の埋没へ

最後の舞踏と美酒

頂点と焦点

高く 高く 高く 高く 高く 高く 高く聳える尖塔

 

彼は行く 一人!

彼は行く 一人!

日 比 谷

 

萩原恭次郎

死刑宣告」所収

1925

友の家を訪ひたるに、

赤子の尿を漏せしとて、

ランプの火影のなか、

妻なる人は疊を拭くに忙し。

 

早や寝たかと思ひし友の、

起きて居し一室には、

食ふものも散らばりたり。

 

引く人もなき俥の

我れを乗せて何處ともなく、

右左搖れつゝ行けば、

廣き野の隅に出でたり。

 

枯草のなか二たところ

黑きものあると思ひし、

むくむくと動くを見れば、

それはみな數知れぬ鼠にして、

我れを見て逃げもせず……

此時に醒めし我が夢。

 

石井柏亭

1958

言葉なき歌

あれはとおいい処にあるのだけれど

おれは此処で待っていなくてはならない

此処は空気もかすかで蒼く

葱の根のように仄かに淡い

 

決して急いではならない

此処で十分待っていなければならない

処女の眼のように遥かを見遣ってはならない

たしかに此処で待っていればよい

 

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた

号笛の音のように太くて繊弱だった

けれどもその方へ駆け出してはならない

たしかに此処で待っていなければならない

 

そうすればそのうち喘ぎも平静に復し

たしかにあすこまでゆけるに違いない

しかしあれは煙突の煙のように

とおくとおく いつまでも茜の空にたなびいていた

 

中原中也

在りし日の歌」所収

1936

私の自叙傅

俺は小百姓の家に

たつた一人の子に生れた。

俺はおしやべりの人間が嫌ひだつた、

俺はおし黙つた蜥蜴が好きだつた、

俺は蜥蜴と遊び耽つた後で、

極つたやうに蜥蜴を両斷した。

彼の女の頭の方は崩れた石垣の上から俺を睨んだ、

彼の女の尾の方は落ちた椿の蕊の裡で跳ね廻つた、

彼の女の綠靑色の肌が花粉で黄色くよごれた、

たとひ、それが一瞬時の事實としても、

一つの生命が二つにも三つにも分裂することに

俺は限りなく美味な驚異を飽食した。

やがて大きな手が俺を捕へて

確乎と俺に目隠しをした。

 

それから長い長い路が始まつた、

道はざくざくして歩行きにくかつた、

道は一ぱいに象形文字が鋪きつめてあつた。

俺は厚い土壁の牢獄に俺を見出した、

俺はやうやうの事で窓を目付けた、

窓にはチヤイコフスキイが立つて居た、

チヤイコフスキイはスクリアビンを紹介して去つた、

俺の血に棲む小反逆者が俺の道徳に肉道した、

スクリアビンの肉體は死んださうだが、

俺の窓へは毎日來る、

今朝も俺の手を握りながら、

「どうだ、俺の手は………」と言つた位だ。

 

深尾贇之丞

「天の鍵」所収

1920

青い林檎

赤い林檎に

青い林檎

なぜにひとつが

青いのか

 

あんまり泣いて

死んだゆえ

それでひとつが

青いのだ

 

瀨田彌太郎

抒情小曲集『哀吟余情』所収

1925

木犀の匂ひ

木犀が咲き出すと

水晶製の空気がどこからともなくながれてきて

すべるやうに音なくながれてきて

時によるとほかのものがみんな消えてしまつて

ただ木犀の匂ひだけが

地球のうへをながれてゐることがある 

 

高橋元吉

高橋元吉詩集」所収

1962

秘やかな楽しみ

一顆の檸檬を買い来て、

そを玩ぶ男あり、

電車の中にはマントの上に、

道行く時は手拭の間に、

そを見 そを嗅げば、

嬉しさ心に充つ、

悲しくも友に離りて

ひとり 唯独り 我が立つは丸善の洋書棚の前、

セザンヌはなく、レンブラントはもち去られ、

マチス 心をよろこばさず、

独り 唯ひとり、心に浮ぶ楽しみ、

秘やかにレモンを探り、

色のよき 本を積み重ね、

その上にレモンをのせて見る、

ひとり唯ひとり数歩へだたり

それを眺む、美しきかな、

丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、

ほほえまいて またそれをとる、冷さは熱ある手に快く

その匂いはやめる胸にしみ入る、

奇しきことぞ 丸善の棚に澄むはレモン

企らみてその前を去り

ほほえみて それを見ず、

 

梶井基次郎

「梶井基次郎全集」所収

1922