私は野原へほうり出された赤いマリだ!
力強い風が吹けば
大空高く
鷲の如く飛び上る。
おゝ風よ叩け!
燃えるやうな空気をはらんで
おゝ風よ早く
赤いマリの私を叩いてくれ。
林芙美子
「蒼馬を見たり」所収
1929
夜
臥床に私の精神が透徹つてくるときがある
土の上に生きて居ると云ふことが
ひとりでにほゝえまれてくるときがある
晝間は私から遠ざかつてゐたものが
ことごとく私をみつめて私の周圍へにじりよつてくるので
この押詰つた瞬間をもて餘して遂に泣けてしまふ時がある
どんなときにも子供は晴やかに話しかける
すでに子供ではない私しに話しかけてくれる
私は眞劒に子供の話しを聞いてやらなければならない
すべてを父と母との愛に任せ
よなよな
丹念に玩具の積木を積上げる子供にはいさゝかの不安もない
たゞそのかたわらにその子の父である私が
その積上げられたりこわれたりにほろほろになつてしまふ
みんなねむれよ
お互ひをへだてゝゐる間の灯を消して
口を閉ぢて靜かにねむつてしまへ
私は暗がりに みんなの安らかな寝息をきいて
ねむりとともにみんなのこゝろが一ツによりそつてゆくのをおもふ
あゝかくも子供は私しを慕つてくれるし
妻はかくも限りなく信頼してくれるのに
私はみた
ねむりの中にもその子供の丸い背に投げかけてゐる妻の手に
そのすきまのないいつぱいの緊張を
かなしいものにめざめた臥床をめぐつて
夜明前の冷氣がしんみりと沁込んでくるこの部屋のこの暗がりに
私はむつくりと蒲團の上に置直つて
自分自身の両手をしつかりと組合せ
自分自身の秘密な考へに興奮する
瀨尾貞男
「岐阜県詩集1933」所収
1933
姉は二十九で死んだ
つまり その人の
二十九歳までしか
私は知らない
故郷の 古い庭が
いい時候になると
姉はそこの椅子に坐つてゐた
花が好きだつた
物の成長が好きだつた
それだのに 自分の生命は
あんなに 気忙しく
燃やしてしまつた
花弁を顔にあてがふと
泣き笑ひのやうな表情をした
そんなに
寂しい顔の娘だつた
今では
私の父も 姉の傍にゐる
ついこの間まで私の側にゐた父が
「男の子たちは
まるで花には無関心でね」
情の声である
「まあ そして私の庭は・・・・」
私達 私たちの生の側には
いい月夜がある
それで きつと
情や姉のことを思ひ出すのだらう
津村信夫
「詩集 父のゐる庭」所収
1942
眼球は日光を厭ふ故に
瞼の鎧戸をひたとおろし
頭蓋の中へ引き退く。
大脳の小区画を填めるものは
困憊したさまざまの食品である。
青かびに被はれたパンの缺け、
切り口の饐えたソオセエジ……
オリーヴ油はまださらさらと透明らしいが
瓶一面の埃のために
よくは見えない。
眼球は醜い料理女である。
厨房の中はうす暗い。
彼女は床のまん中で
少しばかりの獣脂を焚く。
背の低い焔が立つて
油煙がそつと 頭蓋の天井に附く。
彼女は大脳の棚の下をそゝくさとゆきゝして
幾品かの食品をとりおろす。
さて 片隅の大鍋をとつて
もの倦げに黄いろな焔の上にかける……
彼女はこの退屈な文火の上で
誰のためにあやしげな煮込みをつくらうといふのか。
彼女は知らない。
けれども、それが彼女の退屈な
しかし唯一の仕事である。
大脳はうす暗い。
頭蓋は燻つてゐる。
彼女は――眼球は愚かなのである。
富永太郎
「富永太郎詩集」所収
1925
おまへのそばに あをい吹雪がふかうとも
おまへの足は ひかりのやうにきらめく。
わたしの眼にしみいるかげは
二月のかぜのなかに実をむすび、
生涯のをかのうへに いきながらのこゑをうつす。
そのこゑのさりゆくかたは
そのこゑのさりゆくかたは、
ただしろく いのりのなかにしづむ。
大手拓次
「藍色の蟇」所収
1912
われらぞやがて泯ぶべき
そは身うちやみ あるは身弱く
また 頑きことになれざりければなり
さあらば 友よ
誰か未来にこを償え
いまこをあざけりさげすむとも
われは泯ぶるその日まで
たゞその日まで
鳥のごとくに歌はん哉
鳥のごとくに歌はんかな
身弱きもの
意久地なきもの
あるひはすでに傷つけるもの
そのひとなべて
こゝに集へ
われらともに歌ひて泯びなんを
宮沢賢治
「補遺詩篇」所収
1933
第2回目の「詩集の美」シリーズ、前回の小林坩堝さんの「でらしね」に続き、今回は宮岡絵美さんの「境界の向こう」を紹介いたします。
2015年10月に刊行された「境界の向こう」は宮岡さんの三年ぶり2冊目の詩集になります。
銀の線が真っすぐに引かれたシンプルで美しい装丁です。装丁を担当されたのは思潮社装幀室。
カバーを外すと一見ノートのような真っ白な姿。
しかし、よく見るとタイトルが背表紙に型押しされています。おしゃれですね。
宮岡絵美さんは大阪枚方市在住で京都工芸繊維大学の応用生物学科出身でらっしゃいます。
この詩集にも理系の感性が存分に盛り込まれています。
我々が科学の深遠に向かい合うときに感じるセンスオブワンダーと詩情が一つに融合されたと言ったらよいのでしょうか?
今までにないタイプの詩だと思います。
帯文で宮地尚子さんが 「太陽系のなかのひとりの子ども」が透明なことばを生み出した。 と書いてらっしゃいますが、正にこの詩集の本質をついている言葉だと思いました。
当サイトではこの詩集から「境界の向こう」を紹介させていただいています。
宮地尚子さんは文化精神医学を専門にされている精神科医です。
アマゾンのリンクはこちら。思潮社刊行で税別2200円です。
あの丘の上に登れば
何かが見えてくるような気がしている
ただ思考を記録するのだった
いつかくる明日の為に
ああ ああ 拍動
そして雲は流れていった
飛ぶように風
私の時は未だ定かでない
エピジェネティックなスティグマ
我々の影
消えない悲しみを持った人は
冬の星座のようだ
(いつまで考え続けるの?)
(もちろん、死ぬまで)
時を辿る風の眼
その向こうに何かが見えるまで
足元のシロツメクサの緑が風にそよぎ
わたしはそれを詩だと思う
それは或いは数学かもしれないのだが
どうやら理論値という言葉にも
詩はあるようだ
我々は限りなく違いを有していて
それこそが希望で有り得るのだろう
ドアを開くのは
境界を越えてゆくのは
やはり君だから
真実について語ってくれないか
国境など人間が決めたものだからと
この世界には
図式化された二項対立など無いのだと
深く被った麦藁帽子の網目に透ける太陽の光
透明な風に木の葉がさらさらと鳴って
その音ばかり追いかけている
宮岡絵美
「境界の向こう」所収
2015