Category archives: Pick up !

詩集の美 「さばーく」

「詩集の美」は、私のお気に入りの詩集の装丁について紹介していく記事です。

今回は柴田聡子さんの「さばーく」を紹介いたします。
鮮やかなブルーと白のチェック模様の表紙と茶色のカバーの組み合わせがとても良いです。
サイズもちょうどよい大きさで、手に持つとしっくりとなじむ感じがします。


発行元は「試聴室」。専業の出版社ではなく、神保町と横浜黄金町に拠点を置くライブハウスです。
そのためでしょうか。私にはこの本の装丁がCDアルバムのジャケットのように見えます。
例えば、このケース。


本のケースとしては、珍しく箱の両側に穴が開いております。普通は文字通り箱なので、穴は片面だけなのですが。
このあたりもCDのような雰囲気を出している一因でしょう。

もう一つ変わっているのは、その両開きケースに、穴をまたいで帯が巻かれていること。
これ、気を付けないと本をケースから出すときに、帯がビリッとなってしまう危険が・・・
しかし、ブックデザインとしてはとても斬新で、大胆なことに挑戦しているなあ、と言う感じです。

装丁はブックデザイナーの佐藤亜沙美さん。祖父江慎さんのコズフィッシュで修行を積んだ方らしいです。
字組みやノンブル(ページ番号)の書体を決めて、一旦本の形にしてまとめた上で、総ページ数、全体のボリューム感、紙の質など、全体のイメージを固めていく作り方をされているとか。
納得の質の高さです。

柴田聡子さんは2010年にデビューされたシンガーソングライター。この第一詩集は柴田さんの作詞した曲を中心にまとめたものです。
YouTubeに歌の映像がUpされているので、是非一度聞いてみてください。
少し不思議でキュートとしか言いようのない饒舌な言葉の世界が展開されています。

そして詩集と言う形でその言葉を読んでみると、その印象が全く変わってくるのに驚きます。
言葉のスピードが変わってくると言ったら良いのでしょうか。歌で聞くのとは違う落ち着いた表情を見せています。
しかし、不思議なリズム感はそのままで、やわらかく弾むふうせんのような感覚を受けます。

当詩集は第5回エルスール財団新人賞を受賞しました。その際の選考委員の言葉を引用させてください。
「柴田聡子はいわゆるシンガーソングライターであるが、その歌詞は飛躍や諧謔に満ち、こういってよければ、歌詞であることを超えている。では現代詩的かとい うと、もちろんそのガラパゴス化とはべつのところからやってきて、べつのところへ出ようとしている。要するに、詩として不思議にあたらしいのだ。」野村喜和夫
「その詩を声に、声を自らのギターに乗せて、柴田聡子さんは、はにかみながら世界と闘う。明るいタナトスと品のよいエロス。謎めくユーモアとチャーミングな 毒。やなんかを武器に。「歌-詩」だけじゃない。詩集『さばーく』の後半に収められた、お芝居の台本とか、あるいは「あとがき」さえも、滅茶苦茶に「詩」 だ。」カニエ・ナハ
とても的確にこの詩集の新しさを言葉にしてくれています。

当サイトでは、このさばーくの中から一篇「耳をください」を紹介しております。
是非ご覧になってください。

また「さばーく」はAmazonでも購入可能となっています。こちらです。

詩の書棚(紀伊国屋新宿本店)

書店に行って、書棚を眺めるとそれだけでわくわくしてきませんか?
棚を作る、と言いますが、書棚の本の配置は、それだけで、それぞれの本の文脈を語るものです。そこで、詩の在庫が豊富な書店の書棚を撮影し、その内容をじっくりと検証しようと言うのが、この企画です。

まず第一番目は紀伊国屋新宿本店二階の詩コーナーの書棚から。撮影は2016年2/24です。

こちらの書棚はカリスマ書店員たる梅﨑実奈さんの選書により作られております。
さすがのセンスを感じさせる選書。具体的に見てみましょう。

まずは海外詩の書棚から。
写真をクリックすると拡大した画像が見られますよ!

まず、目立つのが吉川幸次郎の「杜甫詩注」十巻揃い。日本を代表する稀代の漢学者吉川幸次郎が生涯を掛けて編んだ渾身の著作です。
一篇の漢詩に詳細を極めた注を付けた作品。一度手にとって見て下さい。この注の詳細さに仰天すると思います。
これが十巻揃っているのを見ただけで感動です。分かってますな、という感じですね。
その他にもシェークスピア、ランボー、ジャン・ジュネ等、押さえるべき所はきっちりと押さえております。

そして海外詩書棚の二番目、パウル・ツェラン、マヤコフスキー、漢詩の関連書籍に並んで・・・・iichikoまであるではないですか!
ご存知の方は少ないかもしれませんが、あの焼酎のiichikoはかなり硬派の広報誌を出していまして、その密度の濃さは完全に広報誌のレベルを超えています。通常の書店で販売はしていないので、かなりなレアものと言っていいでしょう。

そしてこちらは日本の詩。
定番の現代詩手帖のバックナンバーから、宮沢賢治、金子みすず、立原道造のアンソロジーなど定番の書籍から、新書の解説書まで過不足無くラインナップ。

そして見よ!この現代詩文庫の品揃えを!ここまで数が揃っているのはやはり大型書店ならでは。さすが紀伊国屋書店。日本の書籍文化を代表する書店ですね!

しかし、まだまだこんなものではございません。さらに続き日本の詩人。若手詩人の最果タヒさんの詩集のPOPです。
その下にはちゃんと相田みつをの詩集も並んでいます。


そして、その下には長田弘、北村太郎がしっかりと品揃えされています。
北村太郎全詩篇の分厚さがやたらと目立ちますね!

そしてこちらは田村隆一の全集。その隣には谷川俊太郎がずらりと並ぶ。

そしてこちらはまどみちおの分厚い全詩集、吉野弘全詩集、吉本隆明詩全集、吉原幸子全詩など、圧巻の品揃え。


次は平台です。萩原朔太郎の猫町が目立ってますね。それと「月に吠えらんねえ」がちゃんと並んでおります。詩の棚にこの漫画が一緒に並んでいたのは私の知る限りこの書店だけです。

さらに現代詩手帖が三ヶ月分。そして中原中也賞を受賞した「長崎まで」にしっかりPOPが立っております。


こうして並べられるとやはり最果タヒさんの詩集の表紙が目立ちますね。個人的にはバナナタニ園の味のある表紙が好きです。こちらは吉本ばななさんの写真に、谷郁雄さんが詩を付けたもの。

そしてこちらの平台では茨木のり子のムックと料理の本。隣りには夏葉社の尾形亀之助の詩集が!近年再評価されている石原吉郎の詩集にPOPが付いています。

そしてこちらには最果タヒさんの手書きの色紙が二枚も!その下にはマヤコフスキーのかっこいい写真があります。

全体を通してみると、決してマニアックな品揃えに終始するわけでもなく、ポピュラーな所もおさえながら、マンガを一緒に並べてみたりして詩の書棚の間口を広く取ろうとしているのがよく分かります。ただそれだけでなく、マニアも唸らせる本がピンポイントでしっかり品揃えされています。
これだけの広いスペースを確保できるのは大型書店しか出来ないかもしれませんが、それを埋めようと思えば、かなりのセンスが求められるわけで、梅﨑さんの力量に敬服いたします。

さて、いかがでしたでしょうか?書棚の写真を見ているだけで、幸せな気持になってきませんか?アマゾンのリコメンドシステムもなかなかですが、書店の書棚には思いもよらぬ本との出会いの機会があります。首都圏にお住まいの方以外はなかなか紀伊国屋に足を運ぶ機会が無いと思うので、こちらの写真でバーチャルな書店めぐりを楽しんでもらえたら嬉しいです。

詩集の美「青葱を切る」

詩集の美。
今回は藤本徹さんの「青葱を切る」を紹介いたします。

白いシンプルな素材の紙にポンと配置された葱。青葱とはいいつつも、その色合いは黒に近く水墨画のような印象を受けます。鮮やかな色は避けられ、シンプルな色彩が選択されています。タイトルの手書き文字もさりげないですが、実に味わい深いです。


裏側にはその青葱を切るための包丁。表紙とは反対の左側に配置されたやや幅広の洋包丁です。
イラストは西淑さん。ホームページを拝見した所、普段はもっとカラフルなイラストを描かれているようですが、この詩集では敢えてそこを抑えて控えめなトーンでまとめられています。

ちなみに小さいシールで1800とあるのは、手書きのお値段シール。私家版のため、ISBNコードやバーコードは印刷されていません。個人的なことですが、私はあの醜いコードを心から憎んでいるので、嬉しいですね。


版型は少し大きめの文庫くらいのサイズ。押し付けがましさのない、さりげない存在感がよいです。

藤本徹さんの16篇の詩が載っています。トータル105ページ。ひとつひとつが比較的長めです。それぞれの詩篇にストーリーラインがあり、まるで短編小説のように読ませます。面白いのは、作品ごとに詩の主体が「わたし」「おれ」「あたし」と男女の間を切り替わっていくところ。
読者としては、詩の語り手=作者と思い込んでいるところがあるので、「あたし」が語り手になった時は少し虚をつかれた感じがしました。
藤本徹さんは1983年生まれ。2011年よりユリイカ、現代詩手帖に詩を投稿し始め、この「青葱を切る」が第一詩集だそうです。

今回、この「青葱を切る」から「檸檬」を紹介させていただきます。中でも最も構成の妙が際立っている作品と感じました。
私家版のため、入手は少し困難かもしれませんが、とても良い詩集です。興味を持たれた方は是非どうぞ。
入手方法はコメント欄にて。

戦後日本における「詩」とは? 紙面を超えた実験的な詩作活動

 東京に滞在していた数年前、深夜に地下鉄大江戸線のプラットフォームで地図を見ていたら、少しお酒の入った若いカップルが近寄ってきて道順を教えてくれた。そして、その後色々と質問をしてきた。「日本で何をしているの?」-「学生です」、「何を勉強しているの?」-「日本文学です」、「どんなジャンル?」-「現代詩です」。一瞬の沈黙の後、女性の方が突然大声で私にこう言った。「すごい退屈!あなた退屈な人ね!」

 それでもなお私はこのテーマの研究を続けている。国際交流基金の日本研究フェローシップのおかげで昨年は東京に滞在し、博士論文「20世紀日本におけるメディアを横断する詩」の資料を収集することができた。地下鉄の女性の発言は単刀直入だったが、決して稀な考え方ではない。詩全般、特に現代詩は、他の芸術表現と比較して重要でない、影が薄い、退屈であるといった評判である。学術界でも例外ではない。詩は、小説、短編小説、視覚芸術、映画と比較して研究、執筆、教育面で圧倒的な遅れをとっている領域だ。

 しかし私は、今でも詩の重要性は高く、他の表現方法ではできないことを実現できると信じて研究に取り組んでいる。それを主題に、今年初旬に国際交流基金で私の研究の一端を紹介する「戦後日本における『詩』とは?」と題した研究報告を行った。報告では、1950~60年代に日本で創作された詩作品に焦点を絞り、「詩」の持つ可能性、「詩」を見せる/聴かせる/表現する/記録する/書き留める方法、「詩」の本来の意味、という概念に果敢に挑んだ当時の作品群について語った。

 第二次世界大戦後20年間で、日本における詩作品の伝統がほぼ確立されたと言える。文学史で頻繁に参照される詩人・詩壇には、荒涼な作風で心を揺さぶる田村隆一ら文豪、当時注目された石垣りん、富岡多恵子ら女性詩人、現在でも幅広く人気を集める谷川俊太郎や大岡信ら叙情詩人などが挙げられる。だが、当時の詩に対する私の最大の関心事はこれら詩人の作品(通常、詩誌に掲載された後に書籍刊行となる)ではない。

 私が興味を惹かれるのは、50年代、特に60年代に日本内外で展開された詩作品の異なる歴史的側面だ。当時、文筆活動か、言葉を使うか否かを問わず、無数の詩人が詩の概念の拡大に向けた活動を繰り広げた。文学、映画、テレビ、演劇、音楽、彫刻、ダンス、写真等を融合した自由奔放な芸術活動で、後に「インターメディア」と称される現象も台頭した。なかには即座に詩と認識できないような作品もある。しかし、これらを当時の詩作活動の中核に捉えることで、「文学作品」が、驚異的な柔軟性と多様性で新たなメディア技術、芸術動向、政治運動に即した変容を遂げてきたこと、別世界の架け橋となる潜在力を備えていることについて理解を深めることができる。

 その初期の例は、詩人、音楽評論家、作曲家だった秋山邦晴(1929-1996年)の作品である。1950年初期に若きアーティストが東京で結成したアヴァンギャルド芸術研究会「実験工房」のメンバーとして、彫刻家、エンジニア、詩人、現在でも人気の高い武満徹や湯浅譲二ら作曲家と活動を共にした。1950年に日本初のテープレコーダーが発売され、1953年9月に実験工房の「第5回発表会」で秋山は、世界初とされる「作品A」および「作品B:囚われた女」と題する「テープレコーダーのための詩」を発表した。

experimental-poetry_01-thumb-250x180-20497

秋山邦晴「テープレコーダーのための詩–作品 B: 囚われた女」の台本(1953年 私蔵)

いずれの作品も音源は紛失しているが、幸運なことに東京滞在中、「作品B」の現存する台本2点を目にする機会を得た。かつて資料でしか読んだ事のなかったものだ。20頁を超える36部構成で、様々な音声の並行録音、録音トラックの時刻表示、演出指導やサウンド操作など、驚くべき内容であった。まさに失われたシュルレアリスムの叙事詩(鏡、石、夜、風等のイメージを催眠効果で過剰に反復表現し、体・自然・構造体が継続的に断片化・変形する非現実的な景観を音で喚起する)である。米占領の最終年に創作され、翌年発表された本作品には生の音声や録音済みのサウンドが背景に紛れ込み、現代的な詩情が最先端メディア技術「磁気テープレコーダー」に欠かせないループ、スタッター、リバース等のサウンド効果との融合を果たす。サウンド操作、複数の音声、技術デモ、台本、無人の舞台、失われた録音としての「詩」なのである。

 仙台出身の新国誠一(1923-1977年)も多様な媒体を採用した詩人の一人で、漢字・ひらがな・カタカナを再配置した前衛的かつ視覚的な「コンクリート・ポエトリー(具体詩)」で世に知られる。写真植字機を使用して紙面の空間に文字を自由に配置する新国の具体詩は、単語を文字に、文字を部品にパーツ化する斬新なグラフィック手法で、文字の語義の域を超える意味の構築を実現した。例えば《川または洲》(1966年、下記の画像はオランダの壁詩)では、「川」および「洲」で文字や概念を表現するのみならず、文字を繰り返し配置することにより川辺を流れる水のような視覚的効果を創出している。

experimental-poetry_02-thumb-200x300-20500

新国 誠一《川または洲》の「壁詩」 1966年
オランダ(ライデン)、写真:デービッド・エプステイン

新国にとって、こうした種の詩作品を制作することは真にグローバルな芸術運動に参画するという意味でも重要性が高かった。各文字の意味の説明を付すことで日本語を解さない外国人でも容易に理解できる同氏の詩作品は、世界中の名詩選集にも収録されている。さらに新国は、フランス、英国、ブラジル出身の多様な詩人と協働して具体詩や音響詩の創作にも取り組んだ。視覚と音響、文学と芸術、他言語までもが豊かに織り交ざった作品として、新国の詩は国家や学術領域の境界線をも打破する手段へと進化していった。

 しかし当時、「詩」の含有する意味の拡大に最も大きく貢献したのはオノ・ヨーコ(1933年-)であろう。1960年代の世界的な実験芸術シーンで活躍した最も著名な日本人として知られるオノは、しばしば自分は何よりも詩人だと自称する。若い頃に詩の創作を始め、サラ・ローレンス大学学士課程で詩を専攻。1964年に、初期の代表作となるインストラクション形式の詩集『グレープフルーツ』を2言語(英語・日本語)で発表した。本書の大半が、読者に特定の行動(少なくとも行動している姿の想像)を促す指示語で構成される。こうしたインストラクション形式の詩は、読者の創造力や行動の譜面的な役割を果たし、日常生活を継続的な芸術実践に再プログラム化することを本来の意図としている。

1960年頃のオノの作品《タッチポエムNo.5》は書籍形式の作品である。文章のように白紙が接着され、絡みあった髪毛の束が置かれる以外、ページは白紙である。彫刻・本・体の融合により、ことばを使わず心で感じて読む作品となっている。オノの作品には総じて学術領域の境界線を根本的に拒絶する試みが伺えるが、その初期の例では詩が代表的手段として活用された。

 

experimental-poetry_03-thumb-300x200-20503

オノ・ヨーコ《とびら》 2011年、「オノ・ヨーコ展 希望の路」(広島市現代美術館) の展示風景 写真:Chiaki Hayashi
 上記3名は、斬新な形式や媒体を駆使して詩を創作した50~60年代詩人全体に見受けられる傾向のほんの一例である。その他には、スライドショーと朗読音声を融合した福島秀子の「オートスライド・ポエム」、抽象的な形状を使った菅野聖子の「セミオティック・ポエム」、世界中の人が郵送された指示を実践する塩見允枝子の「スペイシャル・ポエム」、モノを写真に収めて配置する北園克衛の「プラスティック・ポエム」、痛烈な美の表現でドキュメンタリー映画のあり方を再定義した松本俊夫の「ドキュメンタリー・ポエム」等がある。

 どこでも簡単に電子媒体にアクセスできる現代、人間性や芸術の未来に対する問いかけが絶えず浮上している。パソコンや携帯デバイスの画面上で読み、オーディオ形式で聴くことが大半になったら、文学はどのように変化していくのか?多数あるメディアの一形式で文学を体験し、無数の動画、音楽、映画、ポッドキャスト、ゲームと同じプラットフォームで文学を共有するのが一般化したら、私達は文学をどのように捉えれば良いのか?デジタル時代前の50~60年代に新媒体で創作された日本の詩作品こそ、こうした議論に対する別のアプローチを提案してくれる。表現方法としての「詩」ではなく、媒体・体・文章の交差点で生まれる体験・創作物に対する行動や姿勢としての「詩」の可能性をそこに垣間見ることができるのだ。このプロジェクトを通して、現代詩がいかに「退屈でない」かを証明することができればと願っている。

アンドリュー・カンパーナ
Webマガジン「をちこち」より転載
2016

詩集の美「野のひかり」

詩集の美シリーズ。今回は小網恵子さんの「野のひかり」を紹介いたします。
白いシンプルな表紙に金箔でおされた野の花と印象的な緑色のタイトルが刻印されています。

img_2266
発行は水仁舎。北見俊一さんが一人で運営してらっしゃる出版社で、編集から製本までを手がけておられます。一冊一冊を手で製本されているそうで、実際に手に取ると丁寧に作られた本であることが伝わってきます。北見さんはもともと詩学社で多くの詩集の出版に携わっておられたとのこと。

img_2268
この通り、フォントも独特の味わいがありますね。恐らく活版印刷で刷られているのではないかと推測しています。あまりくっきりしすぎていない優しい感じの書体です。

「お皿に値段が印刷されていては、おいしく食事が出来ない」という理由から本には定価やバーコード、ISBNコードが印刷されていません。ご覧のように裏側は真っ白です。

img_2267

その代わりにこのような栞がはさまっております。

img_2270
また、作者による小文も金色の箔押しで挟み込まれています。

img_2272
持っているだけで嬉しくなる「野のひかり」。もちろん装丁だけでなく、内容も素晴らしいです。さりげない日常の風景から丁寧につづられた優しい言葉に、心が癒されます。20篇の詩および散文詩が掲載されています。当サイトでは「野のひかり」から一篇「五月」を紹介させていただいております。

さて、この「野のひかり」ISBNが無いので、当然Amazonでは購入できません。置いている書店さんも恐らくめったに無いと思われます。直接水仁舎さんにお問い合わせいただくか、書店さん経由で注文ください。定価は税別1700円です。

水仁舎さまの連絡先はこちらです。

東京都東村山市久米川町2-36-41
電話 042-308-8324

詩集の美「ポエタロ」

ことばの持つ力とは何だろうか、この普段は特に気にもとめないような、素朴な疑問にじっくりと向き合う時間を与えてくれる、そのような作品です。
厳密に言えば、これは詩集ではないかもしれません。しかし、言葉にこめられた力を解放するものが詩であるならば、まぎれもなく詩集と言えると思います。

ポエタロは、覚和歌子さんによる短い詩文の書かれた47枚のカードから構成されています。カードは源・生命・人間・道具・つながり・やすらぎ・変容・宇宙の8つのジャンルに分けられています。

img_2221
裏返しにしたカードの中から、一枚好きなカードを引き、(あるいは三枚)そこからのメッセージを自分なりに解釈するというのが、基本的な使い方です。

img_2220

例えば今回私が引いたのはこの3枚のカード。

img_2214
「本」と「歌」と「鏡」。それぞれのカードに書かれたメッセージを読むと、まず「本」から読み取れる「自ら問いかけること」、そして「歌」から「美しいものは外ではなく自分の内にある」ということ、そして最後の「鏡」で「自らの中に神性が宿る」ということ。これらから、「まず自分自身が何をやりたいのか見極めなさい。」というメッセージなのかなと考えました。

もちろん、これは私の解釈であって、人によっては同じカードから全く違うメッセージを引き出すこともあるでしょう。これが言葉というものの面白さであり、ひいては詩というものがはらんでいる可能性なのかなと思いました。

とはいえ、写真のように一枚一枚のカードについて詳細な解説もついています。丁寧につくってありますね。

img_22191
解説文に「詩はチューブのような道具になりきった詩人を通して、人間を越えた位相から三次元に下ろされた言葉です」とあります。心を開くことで、自分が探していた答を受け取ることが出来るようになるかもしれません。

当サイトではこの「ポエタロ」からいくつかカードのメッセージを紹介しています。こちらです。
カードを引くのではなく、詩集を読むようにばらばらと気ままにめくっていくのも楽しいと思いますよ!
定価は3500円(税抜)Amazonでも購入可能です。(こちらです)

詩集の美「はじまりはひとつのことば」

たたずまいの良い本というのがあると思います。
言葉では伝えにくいのですが、実際にふれてページをめくっていると、何ともいえない落ち着きの良さを感じるような本。

img_2210
この覚和歌子さんの「はじまりはひとつのことば」もそのような本のひとつです。
出版は「港の人」。活版印刷の詩集等も手がける鎌倉の出版社です。社名は北村太郎の詩から取ったとのこと。

まず、手触りが良いです。軽い上質な紙に絶妙な大きさに配置されたフォント。持っていてページをめくっているとそれだけで心が落ち着くようです。

img_2206
それから、細かい話ですが、本のページを開いて、机に置いても、紙がめくれません。
もう少し説明しますと大抵の本はページを開いておくと、紙が背表紙の糊面に引っ張られて、ページがばらっとなってしまいます。ところが、この本はそうならないのです。ふわりと開いたページを保持してくれます。製本の技術がしっかりしているからなのでしょうか?

img_2223

もうひとつ細かい話をすると(装丁について語るとどうしても話がディテールに傾きます)表紙の題字は型押しされています。写真では分かりにくいかもしれませんが、少しくぼんでいるのが見えるでしょうか?そしてその中の「こ」の字にのみ、薄い緑色が付けられています。

この隅々まで気の配られた装丁に29編の覚和歌子さんの詩篇が収められています。
1995年から2016年まで20年間に渡ってつづられてきた作品をまとめており、それぞれ大きくカラーが異なります。
四季の春夏秋冬それぞれを作品にしたバースデイカードのシリーズや、短い詩を連ねていく連詩。また渡部陽一さんの朗読CD用に書き下ろされた作品など。
ひとつひとつを大事に読んでいきたいです。
定価は2000円(税抜き)Amazonでの購入はこちらになります。

当サイトではこの中からタイトルでもある「はじまりはひとつのことば」を紹介しております。
ぜひご覧になってください。

I Was Minor

In this life,
I was very minor.

I was a minor lover.
There was maybe a day, a night
or two, when I was on.

I was, would have been,
a minor daughter,
had my parents lived.

I was a minor runner. I was
a minor thinker. In the middle
distance, not too fast.

I was a minor mother: only
two, and sometimes,
I was mean to them.

I was a minor beauty.
I was a minor Buddhist.
There was a certain symmetry, but
it, too, was minor.

My poems were not major
enough to even make me
a “minor poet,”

but I did sit here
instead of getting up, getting
the gun, loading it.

Counting,
killing myself.

Olena Kalytiak Davis
From “The Poem She Didn’t Write and Other Poems”
2014

詩集の美「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」

詩集の美シリーズ。本日はカニエ・ナハさんの「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」を紹介いたします。

IMG_0950
この詩集を紹介するに当たっては少し説明が必要になります。
2015年9月、表参道にあるスパイラルで開催された創立30周年記念企画として「スペクトラム展」が開催されました。これは現代美術の作品を、その作品にインスパイアされて作成された詩とともに展示するという斬新で意欲的な企画でした。詳細はこちらに記事にしていますので、よければご覧ください。

この企画の中で限定30部として特別販売されたのが今回紹介しておりますカニエ・ナハさんの「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」となります。(長いタイトルなので以下は「多島海」とします。)
三十周年記念なので、三十の作品を限定三十部!

IMG_0951
このようにばらばらになっている詩の印刷された紙が半分に折られて30枚集められひとつのまとまった詩集として提示されています。
面白いのは「ばらばらになった紙」というところで、読者が好きな順番に入れ替えることが出来るという所ですね。
詩篇は読んでみると一つの流れとしてまとまったものもあり、どのような順序で書かれたのか、想像してみるのも楽しいです。読者のセルフサービスで編集できる詩集といったところでしょうか。

発想の元になっているのはこちらの毛利悠子さんの作品「アーバン・マイニング 多島海」です。実際の街灯を使って製作された大型のオブジェと小さな街灯の模型とプレスした空き缶を組み合わせたインスタレーション。

IMG_0939

IMG_0941

カニエさんの詩作品「多島海」はスペクトラム展の「詩の公開製作」というイベントで作成されました。5時間で作品を作り上げ、詩集の形にまとめ上げるという、いわば「即興詩集」です。時には何年も掛けて推敲する詩集とは真逆の手法ですが、それがかえって言葉の勢いとなり、読者に迫ってくるように感じられます。

残念ながら、限定三十部で販売された作品なので、書店等で入手することは出来ないのですが、今回はカニエ様から許可をいただき、この中から私が独断と偏見で選んだ二篇を紹介したいと思います。
こちらです。
その1
その2

また、カニエさんは今年「用意された食卓」という新たな詩集を上梓されております。こちらはもちろんAmazonでも入手可能です。第21回中原中也賞を受賞されております。興味を持たれた方はぜひどうぞ。

コンピューターに詩は書けるのか?

Oscar ScwartzというオーストラリアのサイエンスライターがTEDにアップしているスピーチが大変興味深かったので紹介します。以下は彼のスピーチの逐語訳ではなく、大意をまとめたものです。詳細を知りたい方は原典に当たって見てくださいね。

 

コンピューターに詩は書けるのでしょうか?

これは非常に重たい問いかけであり、たちまち幾つもの疑問を生み出します。コンピューターとは何か?、詩とは何か?、創造性とは何なのか?これは、短いTEDのスピーチでは到底答えることが出来ない問いです。
そこで、私は異なるアプローチを取ることにしました。

まずはこの二つの詩をご覧ください

Poem 1

Little Fly
Thy summer’s play
My thoughtless hand
Has brush’d away

Am not I
A fly like thee?
Or art not thou
A man like me?

小さなハエよ
汝の夏の遊び
私の心無い手が
お前を振り払う

私は
汝のようなハエなのではないだろうか
あるいはハエよ
お前は私のような人間なのではないだろうか

Poem 2

We can feel
Activist through your life’s
morning
Pauses to see, pope I hate the
Non all the night to start a
great otherwise

I’ll snake swirling
Vastness guess
Totally mental harmster if I
Know I put on a year a crucial
absolutely.

私達は感じることが出来る
活動家 あなたの生活の中の

立ち止まって見なさい、教皇、私は憎む
全ての夜ではなく
別の偉大な何かを始めるため

私は渦を巻いてくねくね進む
広大な推測
完全に精神的な害獣だ
もし私が絶対的に重要なものを一年身に付けることを
知っていたなら。

このうちの、どちらかが、コンピューターが書いた詩で、もうひとつは人間が書いたものです。どちらがどちらか、分かりますか?

比較的分かりやすい問題だったのではないでしょうか?
最初の詩はウィリアム・ブレイクの作品、2番目の詩はある一日に私のFacebookに書かれた言葉を一定のアルゴリズムを用いて並べ替えたものです。

それでは次の問題

Poem 1

A lion roars and a dog barks. It is interesting
and fascinating that a bird will fly and not
roar or bark. Enthralling stories about animals
are in my dreams and I will sing them all if I
am not exhausted and weary.

ライオンは咆哮をあげ、犬は吠える。
鳥は飛ぶだろうが、咆哮もしないし、吠えもしない。
これは興味深く魅力的なことだ。
私の夢の中にいる動物達の魅惑的な物語
もし私が疲れ果てているのでなかったら、彼等のことを歌うだろう。

Poem 2

Oh kangaroos, sequins, chocolate sodas!
You really are beautifull Pearls,
the stuff they’ve always talked about

still makes a poem a surprise!
These things are with us every day
even on beachheads and biers. They
do have meaning. They’re strong as rocks.

おお、カンガルーよ、スパンコールよ、チョコレートソーダよ!
お前たちは美しい真珠のよう
いつもそのことを話している

いまだに詩を驚くべきものにしている
これらの物はいつも我々と共にある
海岸堡や棺台の上にさえ。
これらは意味を持っている。岩のように堅牢だ。

いかがでしょう?これは難しかったのではないでしょうか?
最初の詩はRacterという1970年代に作られたアルゴリズムにより作成された詩で、2番目の詩はフランク・オハラによる作品です。私の好きな詩人です。

これは、詩の「チューリング・テスト」です。
チューリングは1950年代にこのような問いをたてました。「コンピューターは考えることが出来るのか?」
彼の取った方法は、もし人間とコンピューターがテキストベースの対話を行い、相手が人間なのか、コンピューターなのか判別できなければ、コンピューターは知性を持っていると見なそうというものでした。

2013年に私と友人のベンジャミン・リアードはオンラインで詩のチューリング・テストを行いました。「bot or not」というサイトです。今でもサイトに行って試すことが出来ます。基本は我々が先ほど行ったゲームと同じです。私達はこのテストを何千回も行いました。

さて結果はどうだったのでしょうか?チューリングはもしコンピューターが全体の30%の人間を欺くことが出来たら、合格としていました。そしてbot or notでは65%もの人がコンピューターにより書かれた詩を人間のものだと考えました。この結果を見れば、明らかなように「コンピューターは詩を書ける」のです。

これには沢山の反論が出てくるでしょうね。そうです。当然のことです。しかし、話はここで終わりません。次のテストを見てみましょう。

Poem 1

Red flags the reason for pretty flags.
And ribbons.
Ribbons of flags
And wearing material
Reason for wearing material.
Give pleasure.
Can you give me the regions.
The regions and the land.
The regions and wheels.
All wheels are perfect.
Enthusiasm.

赤い旗、可愛い旗の理由
リボン
旗のリボン
そして洋服
洋服の理由
喜びを与える
地方をいただけませんか?
地方と土地
地方とホイール
全てのホイールは完全である
熱狂。

Poem 2

A wounded deer leaps highest,
I’ve heard the daffodil
I’ve heard the flag to-day
I’ve heard the hunter tell;
‘Tis but the ecstasy of death,
And then the brake is almost done,
And sunrise grows so near
sunrise grows so near
That we can touch the despair and
frenzied hope of all the ages.

傷ついた鹿が高く跳ねる
私はラッパズイセンの声を聞く
私は今日の旗の声を聞く
私は狩人の語る声を聞く
それは死のエクスタシーそのものだ
そしてその時、ほとんどのものが時を止める
そして夜明けがすぐそこまで来ている
夜明けがすぐそこまで来ている
だから我々は絶望を感じながら
全ての時代の幸福の熱狂を感じることが出来る。

いかがでしょうか?
実は1番目の詩が人間によって書かれたものであり、2番目がコンピューターによるものなのです。最初の詩はガートルード・スタイン、2番目はRKCPというアルゴリズムによって作成されました。
ここでRKCPについてごく簡単に紹介させてください。
RKCPレイ・カーツワイルというグーグルの研究者により開発されました。このプログラムは与えられたテキストの構文、用語法を解析し、それと同じロジックの作品を自動生成します。ここで重要なのは、コンピューターは言葉の意味をまるで理解していないということです。言語は単なる素材であり、中国語であってもスウェーデン語であっても、FacebookのFeedからの単語であっても構わないのです。にもかかわらず、RKCPはガートルード・スタインよりもより人間らしく見える詩を作ることが出来ます。あるいはチューリングテストの逆を言えば、スタインはコンピューターに見える詩を書くことが出来る、すなわちスタインはコンピューターであるということも出来ますね。

ちょっと整理してみましょう。
・人間のように書ける人間
・コンピューターのように書けるコンピューター
・人間のように書けるコンピューター
・コンピューターのように書ける人間

一体どういうことでしょう?ウィリアム・ブレイクはガートルード・スタインよりもより人間に近い、ということになるのでしょうか?

詩とはそもそも人間性に立脚するものと考えられています。それゆえ、「コンピューターに詩は書けるのか?」という問いは次のように言い換えることが出来るのです。「人間であるということはどういうことなのか、そうでないものとの境界線はどこに引いたらよいのか?誰が、あるいは何がこのカテゴリーに属するのか?」
これは大変に哲学的な問いです。チューリング・テストのようにイエス・ノーで答えられるようなものではありません。アラン・チューリングはもちろんこのことを認識しており、チューリング・テストをある種の挑発的問いかけとして行ったのだと私は考えています。

また、このbot or notの試みはコンピューターの能力の限界を計るためにしたのではありません。実際、このアルゴリズムは極めてシンプルで単純なものであり、1950年代から存在しています。我々はむしろ、「人間らしさ」を構成するものは何かという問いに答えるためのヒントを集めていたのだといえます。そして我々が認識したのは「人間らしさ」というのは極めて流動的なものであること、確固たる定義というものはなく、人の意見、時代時代に応じて変わっていくものであるということです。

コンピューターはある意味、鏡のようなものだと言えます。我々が見せたものをそのまま模倣するのです。コンピューターにエミリー・ディキンソンの詩を見せれば、エミリー・ディキンソンのような詩を作ります。ウィリアム・ブレイクの詩を見せれば、その模倣を生成します。

近年、人工知能に関する話題が喧しいですね。いわく、「我々はクリエイティブなコンピュータを作ることが出来るのか?」あるいは「我々は人間のようなコンピューターを作ることが出来るのか?」

しかし、いまや我々は「人間らしさ」というものの概念がうつろうものであり、複合的なものであり、時とともに変わっていく概念であることが分かっています。だから我々は代わりにこう問わなければならないのです。「我々はどのような人間らしさをコンピューターに模倣させたいのか?」
これは優れて哲学的な問いです。単にソフトウェアを開発するだけで解が出せるようなものではありません。我々人類が英知を傾けて取り組むべき問いではないでしょうか?