会議室にて
机の前にたくさんの顔が並んでいる。
血のかよっている
笑ったり怒ったり話したりする顔
いつかみんないなくなる顔
とじられる目
つめたくなる唇
からっぽのがいこつ、
けれど永久になくならない
次々と生まれてくる顔
やがては全部交替する顔
それをじっとみまもっている
その交替をあざやかにみている眼——
それがある、きっと。
それが誰だかわからない
ひとり、たしかに一人いるのだが。
石垣りん
「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」
1959
会議室にて
机の前にたくさんの顔が並んでいる。
血のかよっている
笑ったり怒ったり話したりする顔
いつかみんないなくなる顔
とじられる目
つめたくなる唇
からっぽのがいこつ、
けれど永久になくならない
次々と生まれてくる顔
やがては全部交替する顔
それをじっとみまもっている
その交替をあざやかにみている眼——
それがある、きっと。
それが誰だかわからない
ひとり、たしかに一人いるのだが。
石垣りん
「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」
1959
水から空へ
いつぽんの葦が立つ。
葦は、ふるへる。
まつすぐな茎から
葉の末端までが
こまかにふるへる。
突つ立つたまゝ投げ箭が
ふるへてゐるやうに。
まみづと
しほみづのなかで
ゆられる葦は
ねたり起きたりしながら
ふなべりをこすり
舟のあふりで
うちひろがる波紋が、
なかば、水につかつて
ねむつてゐる
千本、万本の葦を
つぎつぎに
ざわめかせる。
あゝことしほど
秋の水が
こゝろと目にしみた
ことはなかつた。
水底にひたされた
葦の根をおしわけて
水のにほひの
いざなふままに、
舟と僕は、すゝむ。
ちぎれちぎれに
とぶ雲のしたを、
ひろがる水のうへを。
けふまで僕を捕まへてゐた
五十何年のながさから
とき放された僕を
小舟は、はこび
小舟はたゞよひ
僕をあそばせる。
舟ぞこにねそべつて
僕は、おもふ。
僕からながれ去つた
五十何年は
葦洲のむかうに
渺茫とつづいて
けぢめもつかない。
それにしても
なにがあつた。
どんなことが。
水のながれにも似た
時のながれにおされ、
ゆく水の、おもひもかけぬ
底のはやさにさらはれ、
愛憎の
もつれのまゝに
うきつ、しづみつ、
なにをみるひまも僕にはなかつた。
しかし、おどろく程のことはない。
女たちの
やさしさ以外は
みんなつまらないことばかりだ。
葦の葉から
葦の葉へ
ぬけてゆく風のやうに、みんな
こけおどかしにすぎないのだ。
コップに挿した
花茎のやうに
ほそうでをまげて
ふふと、笑ひかける女、
僕からついと身を避けて、
ふりむきもせず、流れていつた
ゆきずりの女。
女たちは、みんな花だつた。
水は、
それをはこんだ。
どこへ。
それはしらない。
五十何年が
ながれ去つたあとの
からからになつた僕の
なんといふかるさ。
なんといふあかるさ。
水のうへをゆく心に、さあ
きいてみるがいゝ。
つゆほどの反逆がのこつてゐるかと。
金子光晴
「非情」所収
1955
結論のまだはっきりしないうちに
わあっと立ちあがって
すばやい勢いで殺到してゆくのをみた。
ひとびとはくろく一団となって
地平線の彼方に視野から没した。
その移動がいっせいだったので
自分ひとりが後退しているのだとわたしは錯覚した。
ひとたび後退しはじめるときりがないものだと悔みながら、自分がますますしりぞいているのだとばかり思っていた。
わたしが自分のまわりをおずおずと見まわしたとき
いぜんとしてわたしがその森のなかにいることにおどろいた。
あまりにすばやくみんながどこかへいってしまったのだ。
ここは老木ばかりの森だと誰かがいっていたその森のなかだ。
みんなが捨てていった理由をわたしはそんな風に納得した。
陽がさしてきてわたしはあらためてその森を発見した。
老木たちの梢々は
萌え出たばかりのうすみどりのわか葉が
小びとの群が手まねきでもするようにやさしく陽にむかってゆれていた。
なにかしゃべくって、たのしくにぎやかに、わか葉たちは急速に成長していた。
自分の場を捨ててしりぞいてゆくのだと錯覚した自分がおかしかった。
わたしのなかのあわてものよ、自信喪失よ。
そうではないのか、まわりには焦げつくように南国の陽がさし
森のうえにふりそそぎ
木の間を通して地面につきささっていた。
台風のあと、今年二度目の秋のわか葉がもえ出たことを祝福しているのだ。
シイ、クス、ニクケイ、ヤマモモ、タブ、カシの類。そこにまじるモミ、トガ、カヤの針葉樹類。
亜熱帯常緑樹のしげった森が
つよい秋の陽にむかってそよいでいた。
秋山清
「ある孤独」所収
1959
浮きあがる力とあらそつて
僕はくぐる。
ぎらつく水の底を。
涙が珠になるといふ
うつくしい貝を
僕は、さがしにゆく。
僕のまはりの海は
硝子球のやうにまはる。
上と下をとまどひながら、僕は
泡で沸騰した南太平洋を
もとの位置に戻さうともがく。
潮流のずれ目を
寒暖のくひちがひで
僕は、歪みながら
いのちがけでとどく。
水のそこの岩かげで
ほそぼそと泉が咽び、
うつくしい貝殻が
化粧をしにあつまるところ、
ちろちろする笠子や
縞鯛の子が
つながった影とともに
あそびにやつてくるところ。
秘密警察のスパイ然と
遠くからちろりと横目をくれて
人喰ひ鮫が
うろうろとみはつているところ。
かみそりのやうに水を引き裂きながら
指先から
沸立つた汐をふきながら
僕は、泣いている貝をさがす。
いちばんうつくしい珠。
夜も照りわたるその珠を
僕は、手わたすのだ。
煙草をくはえて
算盤をはじく商人に。
品物をねぶみして
買ひてにわたすだけで
べらぼうにまうける商人に。
いのちがけな
「真実」の顆を
ねだつて手に入れた
心つめたい女たちは、
石のやうに
振動のきこえない胸に
つらねてかざる。
むなしい詩のために。
金子光晴
「人間の悲劇」所収
1952
また季節はめぐりきて うすむらさきのほほえみはよみがえる あなたは思い出 いつみても懐かしい いつまでもあなたのそばにいると あなたの色が沁みこんでくるようだ かけがえのない愛の色よ あなたの繁みの奥に こころのゆりかごを静かにゆり動かす手がある あなたの蔭に「時」のない影がある だがもう あなたの芯から名前は生まれではしても むかしのあなたではない あの日のいのちとともにうすれて いつか消えてしまった ただひとたびの美しさよ いまあなたにくまどられながら じっとあなたをみつめていると 眼が痛くなり 眼を閉じると 急にまわりが広くなる 遠いものは近くなり 近いものは遠くなる あなたの中に私が在るのか 私の中にあなたが在るのか わからなくなる そして 人というものが哀しくなってくる
金井直
「飢渇」所収
1956