Category archives: 1980 ─ 1989

キツネうどんを売る男

うまいで やすいで
やすいで うまいで
うまいで あついで
あついで うまいで
エエ 100円!
ないか?
80円

男が自動販売機で買ったばかりのキツネうどんを 両
手に一つずつ持って叩き売りをやっていた

できたて あつあつ
うまいで やすいで
ないか 80円
エエ! 60円
60円やで これでもないか
買わんか おっさん

買うたばっかしのうどん
なんですぐ売る
ふしぎやろけど わけはいわん
わけはいわんが 一つだけ売る
やすいで うまいで 50円
ないか

30円まで値が下がっても 誰も買おうとしなかった

やすいで のびるで
のびるで うまいで
はやいもん勝ち
10円でどや?

買うた! しゃがれた声がかかって 黄色い顔したじい
さんが手に握りしめた10円玉を男に渡した 男とじいさ
ん 二人ならんで道端に腰をおろし キツネうどんを食
いはじめた。

家に帰り 痛む歯をおさえて考えていた なぜあの男は
キツネうどんを二つも買い 10円に値下げしてまでその
一つを売りたがっていたのだろう もしかしたら あの
男は売ることよりも 本当は誰でもいい誰かと 二人で
キツネうどんを食いたかったのじゃないだろうか

そうだとしたら──

   ×月×日 快晴
   今日もまた街角に立つ。
   ジジイ一人。10円で。七五歳くらい。
   病気のせいか、手が震えていた。
   二人でのびかかったうどんを食う。(何の話もせず)
   親知らずの痛み治らず 親殺しのような

黒瀬勝巳
「幻燈機のなかで」所収
1981

ほたる

ホタルは 青い流れ星
空から落ちた 流れ星
(だからホタルは)
もういちど空へかえろうと
あんなにはげしく とぶのです
けれども空は
(けれども空は)
あんまり高くて とどかない

ホタルは 青い流れ星
空から落ちた 流れ星
(だからホタルは)
水にうつった星かげを
あんなに 恋しがるのです
けれども水は
(けれども水は)
あんまり深くて もぐれない

そうしていまは
ホタルは 草の葉の涙
ホタルは 草の葉の涙

吉原幸子
「樹たち 猫たち こどもたち」所収
1986

喜び

男は
鯛の生きづくり
と 注文した。
鯛はありませんが
鰈ならあります
と 店員が答えた。
運ばれてきた皿の上で
口を天井に仰向け
自分の姿態をスカートのようにひろげてみせた魚。
ひらかれ そがれ 並べられた
白く透きとおるほどの身の置きどころ。
お酒をやると喜びます
店員が言った。
男がとっくりを手に
魚の口から酒をそそぐと
パクッとうごいた。
もう一口!
連れの女もまねた。
それから互に杯を傾け合った。
酒は半身の冷たい絶壁を
骨づたいに
熱く 熱く 落ちて行った。
――まだ生きている。

石垣りん
やさしい言葉」所収
1984

男は疲れていた
人類の鼻という鼻に。
はなばなしい希望に
うちひしがれて
肉ダンゴを
食おうか どうしようか
迷いがでている
──これからの一生は
  鼻とは関わりなく生きてみたい
妻に向かって そう言おうとして
妻のひかる鼻を見
やめる
そんなふうな夕食どきである
ところで
わたしも疲れているのだが
わたしの鼻に。

黒瀬勝巳
「幻燈機の中で」所収
1981

くちびる

あなたのくちびるを想った日々
あなたのくちびるをはげしく想った日々
その内側に
歯がずらり並んでいるなど
考えもせずに

黒瀬勝巳
「幻燈機の中で」所収
1981

せっけん

こんなに
ちいさく なった
おふろばの
せっけん

うちじゅうの
みんなの こころに
やさしく
ちりしいて

1まいだけ
のこった
バラの
はなびらのようだ

まどみちお
くまさん」所収
1989

夏休み

少年チェホフは川で
水浴びをして風邪をひいた
風邪をひいたチェホフは医者へ通った

勉強して自分も医者になろう
医者になりたい
チェホフは夏じゅう
そう 思い続けた

──彼を一生苦しめた
胸の病気も
その夏休みの風邪からはじまった

大木実
「蝉」所収
1981

夕方の田園調布

僕が石柱の門札をのぞきこんでゐると
パトカーが止まつて 一人の警官が下りて来た
「どちらかお探しですか」
「いや別にさういふわけではない」
僕はそつぽを向きながらさう言つて歩みをつづけた

行きながらしばらくたつて
(あれは親切だつたのかもしれないな)
僕はそんな反省もした
ふと振り向くと
坂を下りて来るさつきの警官の姿が見えた
「あなたはオオタカオルさんですか」
さう言はれて僕は「ちがひます」とは言はなかつた
「その人はどういふ人ですか」
「家出人です」
「そのオオタといふ人は僕のやうに黒い帽子をかぶり大きいカバンを持つてゐるのですか」
「本署からの手配によるとさうなのです」
「あなたは黒い帽子をかぶり大きなカバンを持つてゐる人はみんなオオタカオルだといふのですか」
「冗談ぢやない」
警官と僕は長い時間睨みあつて立つてゐた
「尾行は勝手にしたらいいのだ
無線で連絡しあつたらいい
白線の外を歩いたら道路交通法でひつかけたらいい
僕のやうな年頃の老人はやたらに警官なんかに語しかけられたくないんだ
予供の頃悪いことをするとお巡りさんが来るよと言つて育てられてゐる
青年の時代は 人間として当然の思想を持つただけでブタ箱に入れられるといふおそろしい思ひもした
日本特高警察史をひもといてみたまへ」
僕は「ひもとく」といふ古語を使つた
桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐた
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐた
「君はコーヒーをのみに行く一人の老人の散歩を滅茶滅茶にした」
ああ 夕方の田園調布
若い警官とは握手して別れた
グローブのやうな大きな手をしてゐた

しかし考へてみれば
ああ タ方の田園調布
曲り角の小さな旅館で僕は二時間の情事を持つたことがある
心の中の警官がいまも僕を追跡してゐるやうな気もする

桜の大木は枝を路上まで伸ばしてゐる
傷んで変色した葉を路上に降らしてゐる

小山正孝
「山居乱信」所収
1986

何かとしかいえないもの

それは日曜の朝のなかにある。
それは雨の日と月曜日のなかにある。
火曜と水曜と木曜と、そして
金曜の夜と土曜の夜のなかにある。

それは街の人混みの沈黙のなかにある。
悲しみのような疲労のなかにある。
雲と石のあいだの風景のなかにある。
おおきな木のおおきな影のなかにある。

何かとしかいえないものがある。
黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。
それから、コーヒーをもう一杯。
それはきっと二杯めのコーヒーのなかにある。

長田弘
食卓一期一会」所収
1987