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詩の書棚(紀伊国屋新宿本店)

書店に行って、書棚を眺めるとそれだけでわくわくしてきませんか?
棚を作る、と言いますが、書棚の本の配置は、それだけで、それぞれの本の文脈を語るものです。そこで、詩の在庫が豊富な書店の書棚を撮影し、その内容をじっくりと検証しようと言うのが、この企画です。

まず第一番目は紀伊国屋新宿本店二階の詩コーナーの書棚から。撮影は2016年2/24です。

こちらの書棚はカリスマ書店員たる梅﨑実奈さんの選書により作られております。
さすがのセンスを感じさせる選書。具体的に見てみましょう。

まずは海外詩の書棚から。
写真をクリックすると拡大した画像が見られますよ!

まず、目立つのが吉川幸次郎の「杜甫詩注」十巻揃い。日本を代表する稀代の漢学者吉川幸次郎が生涯を掛けて編んだ渾身の著作です。
一篇の漢詩に詳細を極めた注を付けた作品。一度手にとって見て下さい。この注の詳細さに仰天すると思います。
これが十巻揃っているのを見ただけで感動です。分かってますな、という感じですね。
その他にもシェークスピア、ランボー、ジャン・ジュネ等、押さえるべき所はきっちりと押さえております。

そして海外詩書棚の二番目、パウル・ツェラン、マヤコフスキー、漢詩の関連書籍に並んで・・・・iichikoまであるではないですか!
ご存知の方は少ないかもしれませんが、あの焼酎のiichikoはかなり硬派の広報誌を出していまして、その密度の濃さは完全に広報誌のレベルを超えています。通常の書店で販売はしていないので、かなりなレアものと言っていいでしょう。

そしてこちらは日本の詩。
定番の現代詩手帖のバックナンバーから、宮沢賢治、金子みすず、立原道造のアンソロジーなど定番の書籍から、新書の解説書まで過不足無くラインナップ。

そして見よ!この現代詩文庫の品揃えを!ここまで数が揃っているのはやはり大型書店ならでは。さすが紀伊国屋書店。日本の書籍文化を代表する書店ですね!

しかし、まだまだこんなものではございません。さらに続き日本の詩人。若手詩人の最果タヒさんの詩集のPOPです。
その下にはちゃんと相田みつをの詩集も並んでいます。


そして、その下には長田弘、北村太郎がしっかりと品揃えされています。
北村太郎全詩篇の分厚さがやたらと目立ちますね!

そしてこちらは田村隆一の全集。その隣には谷川俊太郎がずらりと並ぶ。

そしてこちらはまどみちおの分厚い全詩集、吉野弘全詩集、吉本隆明詩全集、吉原幸子全詩など、圧巻の品揃え。


次は平台です。萩原朔太郎の猫町が目立ってますね。それと「月に吠えらんねえ」がちゃんと並んでおります。詩の棚にこの漫画が一緒に並んでいたのは私の知る限りこの書店だけです。

さらに現代詩手帖が三ヶ月分。そして中原中也賞を受賞した「長崎まで」にしっかりPOPが立っております。


こうして並べられるとやはり最果タヒさんの詩集の表紙が目立ちますね。個人的にはバナナタニ園の味のある表紙が好きです。こちらは吉本ばななさんの写真に、谷郁雄さんが詩を付けたもの。

そしてこちらの平台では茨木のり子のムックと料理の本。隣りには夏葉社の尾形亀之助の詩集が!近年再評価されている石原吉郎の詩集にPOPが付いています。

そしてこちらには最果タヒさんの手書きの色紙が二枚も!その下にはマヤコフスキーのかっこいい写真があります。

全体を通してみると、決してマニアックな品揃えに終始するわけでもなく、ポピュラーな所もおさえながら、マンガを一緒に並べてみたりして詩の書棚の間口を広く取ろうとしているのがよく分かります。ただそれだけでなく、マニアも唸らせる本がピンポイントでしっかり品揃えされています。
これだけの広いスペースを確保できるのは大型書店しか出来ないかもしれませんが、それを埋めようと思えば、かなりのセンスが求められるわけで、梅﨑さんの力量に敬服いたします。

さて、いかがでしたでしょうか?書棚の写真を見ているだけで、幸せな気持になってきませんか?アマゾンのリコメンドシステムもなかなかですが、書店の書棚には思いもよらぬ本との出会いの機会があります。首都圏にお住まいの方以外はなかなか紀伊国屋に足を運ぶ機会が無いと思うので、こちらの写真でバーチャルな書店めぐりを楽しんでもらえたら嬉しいです。

戦後日本における「詩」とは? 紙面を超えた実験的な詩作活動

 東京に滞在していた数年前、深夜に地下鉄大江戸線のプラットフォームで地図を見ていたら、少しお酒の入った若いカップルが近寄ってきて道順を教えてくれた。そして、その後色々と質問をしてきた。「日本で何をしているの?」-「学生です」、「何を勉強しているの?」-「日本文学です」、「どんなジャンル?」-「現代詩です」。一瞬の沈黙の後、女性の方が突然大声で私にこう言った。「すごい退屈!あなた退屈な人ね!」

 それでもなお私はこのテーマの研究を続けている。国際交流基金の日本研究フェローシップのおかげで昨年は東京に滞在し、博士論文「20世紀日本におけるメディアを横断する詩」の資料を収集することができた。地下鉄の女性の発言は単刀直入だったが、決して稀な考え方ではない。詩全般、特に現代詩は、他の芸術表現と比較して重要でない、影が薄い、退屈であるといった評判である。学術界でも例外ではない。詩は、小説、短編小説、視覚芸術、映画と比較して研究、執筆、教育面で圧倒的な遅れをとっている領域だ。

 しかし私は、今でも詩の重要性は高く、他の表現方法ではできないことを実現できると信じて研究に取り組んでいる。それを主題に、今年初旬に国際交流基金で私の研究の一端を紹介する「戦後日本における『詩』とは?」と題した研究報告を行った。報告では、1950~60年代に日本で創作された詩作品に焦点を絞り、「詩」の持つ可能性、「詩」を見せる/聴かせる/表現する/記録する/書き留める方法、「詩」の本来の意味、という概念に果敢に挑んだ当時の作品群について語った。

 第二次世界大戦後20年間で、日本における詩作品の伝統がほぼ確立されたと言える。文学史で頻繁に参照される詩人・詩壇には、荒涼な作風で心を揺さぶる田村隆一ら文豪、当時注目された石垣りん、富岡多恵子ら女性詩人、現在でも幅広く人気を集める谷川俊太郎や大岡信ら叙情詩人などが挙げられる。だが、当時の詩に対する私の最大の関心事はこれら詩人の作品(通常、詩誌に掲載された後に書籍刊行となる)ではない。

 私が興味を惹かれるのは、50年代、特に60年代に日本内外で展開された詩作品の異なる歴史的側面だ。当時、文筆活動か、言葉を使うか否かを問わず、無数の詩人が詩の概念の拡大に向けた活動を繰り広げた。文学、映画、テレビ、演劇、音楽、彫刻、ダンス、写真等を融合した自由奔放な芸術活動で、後に「インターメディア」と称される現象も台頭した。なかには即座に詩と認識できないような作品もある。しかし、これらを当時の詩作活動の中核に捉えることで、「文学作品」が、驚異的な柔軟性と多様性で新たなメディア技術、芸術動向、政治運動に即した変容を遂げてきたこと、別世界の架け橋となる潜在力を備えていることについて理解を深めることができる。

 その初期の例は、詩人、音楽評論家、作曲家だった秋山邦晴(1929-1996年)の作品である。1950年初期に若きアーティストが東京で結成したアヴァンギャルド芸術研究会「実験工房」のメンバーとして、彫刻家、エンジニア、詩人、現在でも人気の高い武満徹や湯浅譲二ら作曲家と活動を共にした。1950年に日本初のテープレコーダーが発売され、1953年9月に実験工房の「第5回発表会」で秋山は、世界初とされる「作品A」および「作品B:囚われた女」と題する「テープレコーダーのための詩」を発表した。

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秋山邦晴「テープレコーダーのための詩–作品 B: 囚われた女」の台本(1953年 私蔵)

いずれの作品も音源は紛失しているが、幸運なことに東京滞在中、「作品B」の現存する台本2点を目にする機会を得た。かつて資料でしか読んだ事のなかったものだ。20頁を超える36部構成で、様々な音声の並行録音、録音トラックの時刻表示、演出指導やサウンド操作など、驚くべき内容であった。まさに失われたシュルレアリスムの叙事詩(鏡、石、夜、風等のイメージを催眠効果で過剰に反復表現し、体・自然・構造体が継続的に断片化・変形する非現実的な景観を音で喚起する)である。米占領の最終年に創作され、翌年発表された本作品には生の音声や録音済みのサウンドが背景に紛れ込み、現代的な詩情が最先端メディア技術「磁気テープレコーダー」に欠かせないループ、スタッター、リバース等のサウンド効果との融合を果たす。サウンド操作、複数の音声、技術デモ、台本、無人の舞台、失われた録音としての「詩」なのである。

 仙台出身の新国誠一(1923-1977年)も多様な媒体を採用した詩人の一人で、漢字・ひらがな・カタカナを再配置した前衛的かつ視覚的な「コンクリート・ポエトリー(具体詩)」で世に知られる。写真植字機を使用して紙面の空間に文字を自由に配置する新国の具体詩は、単語を文字に、文字を部品にパーツ化する斬新なグラフィック手法で、文字の語義の域を超える意味の構築を実現した。例えば《川または洲》(1966年、下記の画像はオランダの壁詩)では、「川」および「洲」で文字や概念を表現するのみならず、文字を繰り返し配置することにより川辺を流れる水のような視覚的効果を創出している。

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新国 誠一《川または洲》の「壁詩」 1966年
オランダ(ライデン)、写真:デービッド・エプステイン

新国にとって、こうした種の詩作品を制作することは真にグローバルな芸術運動に参画するという意味でも重要性が高かった。各文字の意味の説明を付すことで日本語を解さない外国人でも容易に理解できる同氏の詩作品は、世界中の名詩選集にも収録されている。さらに新国は、フランス、英国、ブラジル出身の多様な詩人と協働して具体詩や音響詩の創作にも取り組んだ。視覚と音響、文学と芸術、他言語までもが豊かに織り交ざった作品として、新国の詩は国家や学術領域の境界線をも打破する手段へと進化していった。

 しかし当時、「詩」の含有する意味の拡大に最も大きく貢献したのはオノ・ヨーコ(1933年-)であろう。1960年代の世界的な実験芸術シーンで活躍した最も著名な日本人として知られるオノは、しばしば自分は何よりも詩人だと自称する。若い頃に詩の創作を始め、サラ・ローレンス大学学士課程で詩を専攻。1964年に、初期の代表作となるインストラクション形式の詩集『グレープフルーツ』を2言語(英語・日本語)で発表した。本書の大半が、読者に特定の行動(少なくとも行動している姿の想像)を促す指示語で構成される。こうしたインストラクション形式の詩は、読者の創造力や行動の譜面的な役割を果たし、日常生活を継続的な芸術実践に再プログラム化することを本来の意図としている。

1960年頃のオノの作品《タッチポエムNo.5》は書籍形式の作品である。文章のように白紙が接着され、絡みあった髪毛の束が置かれる以外、ページは白紙である。彫刻・本・体の融合により、ことばを使わず心で感じて読む作品となっている。オノの作品には総じて学術領域の境界線を根本的に拒絶する試みが伺えるが、その初期の例では詩が代表的手段として活用された。

 

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オノ・ヨーコ《とびら》 2011年、「オノ・ヨーコ展 希望の路」(広島市現代美術館) の展示風景 写真:Chiaki Hayashi
 上記3名は、斬新な形式や媒体を駆使して詩を創作した50~60年代詩人全体に見受けられる傾向のほんの一例である。その他には、スライドショーと朗読音声を融合した福島秀子の「オートスライド・ポエム」、抽象的な形状を使った菅野聖子の「セミオティック・ポエム」、世界中の人が郵送された指示を実践する塩見允枝子の「スペイシャル・ポエム」、モノを写真に収めて配置する北園克衛の「プラスティック・ポエム」、痛烈な美の表現でドキュメンタリー映画のあり方を再定義した松本俊夫の「ドキュメンタリー・ポエム」等がある。

 どこでも簡単に電子媒体にアクセスできる現代、人間性や芸術の未来に対する問いかけが絶えず浮上している。パソコンや携帯デバイスの画面上で読み、オーディオ形式で聴くことが大半になったら、文学はどのように変化していくのか?多数あるメディアの一形式で文学を体験し、無数の動画、音楽、映画、ポッドキャスト、ゲームと同じプラットフォームで文学を共有するのが一般化したら、私達は文学をどのように捉えれば良いのか?デジタル時代前の50~60年代に新媒体で創作された日本の詩作品こそ、こうした議論に対する別のアプローチを提案してくれる。表現方法としての「詩」ではなく、媒体・体・文章の交差点で生まれる体験・創作物に対する行動や姿勢としての「詩」の可能性をそこに垣間見ることができるのだ。このプロジェクトを通して、現代詩がいかに「退屈でない」かを証明することができればと願っている。

アンドリュー・カンパーナ
Webマガジン「をちこち」より転載
2016

コンピューターに詩は書けるのか?

Oscar ScwartzというオーストラリアのサイエンスライターがTEDにアップしているスピーチが大変興味深かったので紹介します。以下は彼のスピーチの逐語訳ではなく、大意をまとめたものです。詳細を知りたい方は原典に当たって見てくださいね。

 

コンピューターに詩は書けるのでしょうか?

これは非常に重たい問いかけであり、たちまち幾つもの疑問を生み出します。コンピューターとは何か?、詩とは何か?、創造性とは何なのか?これは、短いTEDのスピーチでは到底答えることが出来ない問いです。
そこで、私は異なるアプローチを取ることにしました。

まずはこの二つの詩をご覧ください

Poem 1

Little Fly
Thy summer’s play
My thoughtless hand
Has brush’d away

Am not I
A fly like thee?
Or art not thou
A man like me?

小さなハエよ
汝の夏の遊び
私の心無い手が
お前を振り払う

私は
汝のようなハエなのではないだろうか
あるいはハエよ
お前は私のような人間なのではないだろうか

Poem 2

We can feel
Activist through your life’s
morning
Pauses to see, pope I hate the
Non all the night to start a
great otherwise

I’ll snake swirling
Vastness guess
Totally mental harmster if I
Know I put on a year a crucial
absolutely.

私達は感じることが出来る
活動家 あなたの生活の中の

立ち止まって見なさい、教皇、私は憎む
全ての夜ではなく
別の偉大な何かを始めるため

私は渦を巻いてくねくね進む
広大な推測
完全に精神的な害獣だ
もし私が絶対的に重要なものを一年身に付けることを
知っていたなら。

このうちの、どちらかが、コンピューターが書いた詩で、もうひとつは人間が書いたものです。どちらがどちらか、分かりますか?

比較的分かりやすい問題だったのではないでしょうか?
最初の詩はウィリアム・ブレイクの作品、2番目の詩はある一日に私のFacebookに書かれた言葉を一定のアルゴリズムを用いて並べ替えたものです。

それでは次の問題

Poem 1

A lion roars and a dog barks. It is interesting
and fascinating that a bird will fly and not
roar or bark. Enthralling stories about animals
are in my dreams and I will sing them all if I
am not exhausted and weary.

ライオンは咆哮をあげ、犬は吠える。
鳥は飛ぶだろうが、咆哮もしないし、吠えもしない。
これは興味深く魅力的なことだ。
私の夢の中にいる動物達の魅惑的な物語
もし私が疲れ果てているのでなかったら、彼等のことを歌うだろう。

Poem 2

Oh kangaroos, sequins, chocolate sodas!
You really are beautifull Pearls,
the stuff they’ve always talked about

still makes a poem a surprise!
These things are with us every day
even on beachheads and biers. They
do have meaning. They’re strong as rocks.

おお、カンガルーよ、スパンコールよ、チョコレートソーダよ!
お前たちは美しい真珠のよう
いつもそのことを話している

いまだに詩を驚くべきものにしている
これらの物はいつも我々と共にある
海岸堡や棺台の上にさえ。
これらは意味を持っている。岩のように堅牢だ。

いかがでしょう?これは難しかったのではないでしょうか?
最初の詩はRacterという1970年代に作られたアルゴリズムにより作成された詩で、2番目の詩はフランク・オハラによる作品です。私の好きな詩人です。

これは、詩の「チューリング・テスト」です。
チューリングは1950年代にこのような問いをたてました。「コンピューターは考えることが出来るのか?」
彼の取った方法は、もし人間とコンピューターがテキストベースの対話を行い、相手が人間なのか、コンピューターなのか判別できなければ、コンピューターは知性を持っていると見なそうというものでした。

2013年に私と友人のベンジャミン・リアードはオンラインで詩のチューリング・テストを行いました。「bot or not」というサイトです。今でもサイトに行って試すことが出来ます。基本は我々が先ほど行ったゲームと同じです。私達はこのテストを何千回も行いました。

さて結果はどうだったのでしょうか?チューリングはもしコンピューターが全体の30%の人間を欺くことが出来たら、合格としていました。そしてbot or notでは65%もの人がコンピューターにより書かれた詩を人間のものだと考えました。この結果を見れば、明らかなように「コンピューターは詩を書ける」のです。

これには沢山の反論が出てくるでしょうね。そうです。当然のことです。しかし、話はここで終わりません。次のテストを見てみましょう。

Poem 1

Red flags the reason for pretty flags.
And ribbons.
Ribbons of flags
And wearing material
Reason for wearing material.
Give pleasure.
Can you give me the regions.
The regions and the land.
The regions and wheels.
All wheels are perfect.
Enthusiasm.

赤い旗、可愛い旗の理由
リボン
旗のリボン
そして洋服
洋服の理由
喜びを与える
地方をいただけませんか?
地方と土地
地方とホイール
全てのホイールは完全である
熱狂。

Poem 2

A wounded deer leaps highest,
I’ve heard the daffodil
I’ve heard the flag to-day
I’ve heard the hunter tell;
‘Tis but the ecstasy of death,
And then the brake is almost done,
And sunrise grows so near
sunrise grows so near
That we can touch the despair and
frenzied hope of all the ages.

傷ついた鹿が高く跳ねる
私はラッパズイセンの声を聞く
私は今日の旗の声を聞く
私は狩人の語る声を聞く
それは死のエクスタシーそのものだ
そしてその時、ほとんどのものが時を止める
そして夜明けがすぐそこまで来ている
夜明けがすぐそこまで来ている
だから我々は絶望を感じながら
全ての時代の幸福の熱狂を感じることが出来る。

いかがでしょうか?
実は1番目の詩が人間によって書かれたものであり、2番目がコンピューターによるものなのです。最初の詩はガートルード・スタイン、2番目はRKCPというアルゴリズムによって作成されました。
ここでRKCPについてごく簡単に紹介させてください。
RKCPレイ・カーツワイルというグーグルの研究者により開発されました。このプログラムは与えられたテキストの構文、用語法を解析し、それと同じロジックの作品を自動生成します。ここで重要なのは、コンピューターは言葉の意味をまるで理解していないということです。言語は単なる素材であり、中国語であってもスウェーデン語であっても、FacebookのFeedからの単語であっても構わないのです。にもかかわらず、RKCPはガートルード・スタインよりもより人間らしく見える詩を作ることが出来ます。あるいはチューリングテストの逆を言えば、スタインはコンピューターに見える詩を書くことが出来る、すなわちスタインはコンピューターであるということも出来ますね。

ちょっと整理してみましょう。
・人間のように書ける人間
・コンピューターのように書けるコンピューター
・人間のように書けるコンピューター
・コンピューターのように書ける人間

一体どういうことでしょう?ウィリアム・ブレイクはガートルード・スタインよりもより人間に近い、ということになるのでしょうか?

詩とはそもそも人間性に立脚するものと考えられています。それゆえ、「コンピューターに詩は書けるのか?」という問いは次のように言い換えることが出来るのです。「人間であるということはどういうことなのか、そうでないものとの境界線はどこに引いたらよいのか?誰が、あるいは何がこのカテゴリーに属するのか?」
これは大変に哲学的な問いです。チューリング・テストのようにイエス・ノーで答えられるようなものではありません。アラン・チューリングはもちろんこのことを認識しており、チューリング・テストをある種の挑発的問いかけとして行ったのだと私は考えています。

また、このbot or notの試みはコンピューターの能力の限界を計るためにしたのではありません。実際、このアルゴリズムは極めてシンプルで単純なものであり、1950年代から存在しています。我々はむしろ、「人間らしさ」を構成するものは何かという問いに答えるためのヒントを集めていたのだといえます。そして我々が認識したのは「人間らしさ」というのは極めて流動的なものであること、確固たる定義というものはなく、人の意見、時代時代に応じて変わっていくものであるということです。

コンピューターはある意味、鏡のようなものだと言えます。我々が見せたものをそのまま模倣するのです。コンピューターにエミリー・ディキンソンの詩を見せれば、エミリー・ディキンソンのような詩を作ります。ウィリアム・ブレイクの詩を見せれば、その模倣を生成します。

近年、人工知能に関する話題が喧しいですね。いわく、「我々はクリエイティブなコンピュータを作ることが出来るのか?」あるいは「我々は人間のようなコンピューターを作ることが出来るのか?」

しかし、いまや我々は「人間らしさ」というものの概念がうつろうものであり、複合的なものであり、時とともに変わっていく概念であることが分かっています。だから我々は代わりにこう問わなければならないのです。「我々はどのような人間らしさをコンピューターに模倣させたいのか?」
これは優れて哲学的な問いです。単にソフトウェアを開発するだけで解が出せるようなものではありません。我々人類が英知を傾けて取り組むべき問いではないでしょうか?

詩集はどこに売っているのか

鈴木志郎康さんの詩ではないですが、本当に詩集って売っていないです。
町の小さな書店はもちろん、下手をするとかなり大型の書店であっても詩集を置いていないことが多いです。
そこで、今回は私が調査した結果をここに公表し、実際に詩集を購入する方々のためにご参考にしていただきたいと思います。私が実際に足を運べる範囲でしかないので、不完全な部分もあると思います。もし皆さんが情報をお持ちでしたら下にあるコメント欄で是非シェアしてくださいね。

それでは紹介していきましょう!(赤文字をクリックするとリンク先のサイトが見られますよ!)

 

都内の書店ではこちらですね。

八重洲ブックセンター

六階とやや行きにくいフロアですが、詩集が豊富に揃っています。都内ではジュンク堂書店と並んで一番の品揃えではないでしょうか?日本の詩集、海外の詩集、詩論と、それぞれに一つの棚が割り当てられています。また現代詩手帖に代表される雑誌、同人誌も置いています。

ジュンク堂書店池袋店

上記八重洲ブックセンターとほぼ同じレベルの品揃えです。落ち着いた雰囲気なのでゆっくり詩集を選べると思います。

東京堂書店

意外ですが、神保町の書店で、上記八重洲ブックセンター、ジュンク堂よりも、詩集の品揃えが多いところはありませんでした。その中でも比較的、東京堂書店は多いほうでしたね。

三省堂書店

東京堂書店と並ぶ神保町を代表する大型店ですね。こちらも多いほうです。

他に青山ブックセンター紀伊国屋書店新宿本店も充実しています。
現代詩手帖の2016年10月号に紀伊国屋書店新宿本店で文芸棚を担当している梅﨑実奈さんと穂村弘さんの対談が載っています。棚作りに対する情熱が語られていて読み応えがあります。

 

リアルの本屋での限られたスペースで詩集を置けるのはやはり一部の大型書店に限られるのでしょうか?
どこかに詩集の専門店とかはないのですかね?

リアルの本屋以外では、言わずと知れたアマゾンがありますね。当サイトも出典詩集の名前にアマゾンのリンクを付けています。気になった詩があれば、購入を検討されてはいかがでしょう?

詩集は刷り数が少ないせいか、アマゾンでも品切れになっていることが多いです。場合によってはプレミアがついて定価より高くなっていることもあります。

その場合は出版社のサイトで直接注文することもできます。

まずは詩と言えばこの出版社、思潮社です。
このサイトの在庫一覧でチェックした上で、注文フォームでどうぞ。

そして書肆山田
こちらは在庫の検索はできますが、注文は書店経由となるようです。

詩の出版社ミッドナイトプレス
サイト内に出版目録があります。一部は直接注文できるものもあるようです。サイト内にはエッセイや様々な詩を紹介するコーナーがあり、見ているだけで楽しいですよ!

最後に詩集を扱っている古書店を紹介します。

まずは何と言っても石神井書林さん。いぜんこのサイトでも紹介させていただきました。
店舗が無く、目録販売のみの書店です。
上記のサイトに目録発送依頼の方法が載っています。切手を買って郵便で送ってくださいね。(メールアドレスも載っていますが、以前送っても反応が無かったので、たぶん見ていないのだと思います・・・・)
レア物の本ばかりなので、値段もはりますが、目録を読んでいるだけで充分楽しいと思いますよ。目録の値段は200円です!

それから書肆田髙さん。
こちらはネットでの購入も可能です。

私が集めた情報はこのくらいですが、もし皆さんも素敵な書店をご存知でしたら紹介してくださいね!

 

一点追加です。

詩集の販売ではないですが、多くの詩集を集めた資料館を富沢智さんが運営してらっしゃいます。
榛名まほろば資料館現代詩資料館で蔵書は二万五千冊以上あるそうです。場所は群馬になります。

さらに一点追加です。
大阪に歌集・句集・詩集専門の古書店があるようです。
葉ね文庫
Webを見る限りはなかなか趣のある本屋のようです。一度行って見たい!
TwitterFacebookもあるようですよ。関西在住の方は足を運んでみては?

さらに追加です。
まずは出版社。北村太郎の詩から名前を取った港の人
活版印刷による美しい装丁の詩集を発行しています。(もちろん北村太郎も!)上記のページから直接注文もできるようです。

そして、書肆田髙さんにTwitterでご紹介いただいた渋谷の中村書店こちらの記事を読む限り、歴史あるすごい書店のようです。他に、中野ブロードウェイにある古書うつつ、三鷹の水中書店、池袋の古書往来座、荻窪のささま書店を教えていただきました。情報ありがとうございます!

 

石神井書林の古書目録

石神井書林さんから古書目録が届きました!

石神井書林は詩集を扱う古書店としては有名な存在です。

目録販売が主で、店を持たない営業形態ですが、この目録の内容が素晴らしいです。

美しい写真が豊富に掲載されており、見ているだけで実に楽しい。

お値段は希少本だけにかなりお高めですが。

例えば、こちらの昭和15年発行の「山之口貘詩集」本人のサインと詩が書き込まれており、お値段15万円!

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また、こちらの北原白秋の「わすれなぐさ」大正4年発行、総皮装で、86400円。

 

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こちらは昭和27年刊行のロートレアモン「マルドロオルの歌」青柳瑞穂訳、オリジナルの銅版画5枚付きで151200円。

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このような希少な本の写真を見ているだけで、ため息がでますが、文章だけのページも楽しいです。

例えばこれなど。

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室生犀星自筆原稿、「汽車であった女」ペン書き400字詰め23枚、27万円とあります。

他にもコーネル革装、三方マーブル装、など、想像してみるだけでも楽しい。

 

目録が欲しくなった方はこちらを参照してください。200円切手を送付すれば、郵送してくれます。

 

詩と美術のコラボレーション(スペクトラム展)

本日スペクトラム展に足を運んできました!

@表参道スパイラルガーデンです。

キャプチャ

表参道のスパイラルガーデンの30周年記念企画としてスペクトラム展が開催されています。

栗林隆、榊原澄人、高橋匡太、毛利悠子の4人のアーティストがそれぞれのアート作品を展示しています。

今回、私が足を運んだのは、これらのアート作品とコラボレーションする形で4人の詩人がそれぞれ公開制作を行うというイベントがあったためです。

参加した詩人はカニエ・ナハ、三角みづ紀、大崎清夏、谷川俊太郎。豪華メンバーです。

残念ながら公開制作の現場には立ち会えなかったのですが、アート作品と共に4人の詩人の言葉が展示されており、アートと詩の言葉の融合という新しい試みを堪能できました。

写真撮影は自由、入場無料との事で、パチパチ撮ってきましたよ!

こちらは毛利悠子さんの「アーバン・マイニング:多島海」です。

後ろに見えるのはLED証明に切り替えたため不要となった街路灯です。手前の物は空き缶で作った回路。

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こちらが、アップの写真です。こうして見ると街路灯とは何か別の物体という感じがします。

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空き缶で作ったミニチュアの街路灯です。こちらは、なんだか可愛らしい。

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そしてこの作品について書かれた詩がこちら。カニエナハさんです。

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また、こちらの作品は栗林隆さんの「Vortex」です。

原発事故の汚染土をつめたフレコンバッグをイメージした立方体の中に入るとこのような輝くシャンデリヤが現れます。これは一個一個のガラスが文字になっており、内容はアインシュタインがルーズベルトに送った原爆の開発許可を求める手紙の文章です。ただし鏡文字なので読むためには振り返って影を見る必要があるとか。

 

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そしてこの作品には三角みづ紀さんの作品が。

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そして谷川俊太郎さん

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大崎清夏さんです。

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カニエ・ナハさんの作品が限定30部で販売していましたので、1冊購入。

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中身はこんな感じです。

 

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ただ詩の作品を掲示するだけでなく、もっと斬新なことが出来たかもしれないと考えると少し物足りない感もありましたが、アートと詩の融合という新しい試みはなかなか興味深いものでした。

2015/10/18まで開催していますので皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか?

詳細はこちらです。