破片は一つに寄り添はうとしてゐた
亀裂はいま微笑まうとしてゐた
砲身は起き上つて
ふたたび砲架に坐らうとしてゐた
みんな儚い原形を夢みてゐた
ひと風ごとに砂に埋れて行つた
見えない海
候鳥の閃き
丸山薫
「帆・ランプ・鷗」所収
1932
あなたは一人息子を「えらい人」に成らせたかつた
「えらい人」に成らせるには学問をさせなければならなかつた
学問をさせるには金の要る世の中で
肉体よりほかに売るものを持たないあなたは何を売らねばならなかつたか
だのにその子は不良で学校を嫌つた
命令と服従の関係がわからなかつた
先生の有難味といふものがわからなかつた
強ひられることには何でも背中を向けた
学校へは上級生と喧嘩をしに行くのであつた
一から十まであなたに逆らふ手のつけられない「罰当り」だつた
その子はあなたを殴りさへした
——その時その子が物陰で泣いてゐたことをあなたは知つてゐますか
それでもあなたはその因果な罰当りを天地に代へて愛さずにはゐられなかつた
学校を追はれた不良児は当然社会の不良になつた
社会の不良は「えらい人」が何より嫌ひでそいつらに果し状をつきつけた
「善良な社会の風習」に断乎として反抗した
その罰当りがここに生きてゐる
正義とは何かを摑んで自分を曲げずに生き抜かうとする叛逆者の仲間に加はつて
警察へひつぱられたり あつちこつち渡り歩いたり
飢ゑて死んでも負けるかと言つて生き通してゐる
お母さん!
あなたが死んで十年
だがあなたの腹から出てあなたを蹴つた罰当りの一人息子は此の世に頑然と生きてゐます
岡本潤
「罰当りは生きてゐる」所収
1933
「豆腐が五銭に、油揚が三銭に、
味噌も、紙も。魚も魚河岸の争議から。
何もかも高うなった。
何で物が上がるやら。みんな、高うなった、高うなった、とこぼしているに。」
「となりは巡査一人のはたらきに
六人の子ども。
おかみさんもやりきれまい。」
「シュギシャみたいなことしとったんじゃ
仕事などあるまい。
憲兵が来る、刑事が来る、
近所じゃなんと思うか。
仕事のない者が、なんでそんなに夜がおそいか。
諸式が高うなったら、どうするか。」
「座布団の上に小便しとった。
四匹もおる、どれだか解りゃせん。
もうままも食うし、魚も食う。
この家に来てから生れたが、早いものじゃ。
猫も冬は寒かろうから、陽のあたる家に
早よう越したい。」
「向うの家から貰うたんじゃ。
これは隣からもろうた。
やったり、とったり、ここは長屋だけに
田舎にいた時と同じじゃ。
うまくもないが、よそから貰うたんじゃから、みんな食うてしまえ。」
秋山清
「豚と鶏」所収
1933
彼は巨大な図体を持ち
黒い千貫の重量を持つ
彼の身体の各部はことごとく測定されてあり
彼の導管と車輪と無数のねじとは隈なく磨かれてある
彼の動くとき
メートルの針は敏感に回転し
彼の走るとき
軌道と枕木といつせいに振動する
シヤワッ シヤワッ という音を立てて彼のピストンの腕が動きはじめるとき
それが車輪をかきたてかきまわして行くとき
町と村々とをまつしぐらに駆けぬけて行くのを見るとき
おれの心臓はとどろき
おれの両眼は泪ぐむ
真鍮の文字板をかかげ
赤いランプを下げ
つねに煙をくぐつて千人の生活を運ぶもの
旗とシグナルとハンドルとによつて
かがやく軌道の上をまつたき統制のうちに驀進するもの
その律儀者の大男のうしろ姿に
おれら今あつい手をあげる
中野重治
「中野重治詩集」所収
1931
菫の花の匂ひのする
若いアミの傍で
洒落たグライダアについて考へる
「僕のグライダアを何いろに塗らうかな」
「ゴリラいろにお塗りなさい」
お ゴリラいろのグライダアは釘抜きのやうに空をすべり
一杯の熱い珈琲が
僕たちの意味ないわらひを温める
友よ
かうしたひと時の
またかへらない淡い日を惜しみ
ちひさな町の公園を横切つたことがあるか
それは落葉にみちた
北園克衛
「定本・若いコロニイ」所収
1932
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。
高村光太郎
「智恵子抄」所収
1937