一顆の檸檬を買い来て、
そを玩ぶ男あり、
電車の中にはマントの上に、
道行く時は手拭の間に、
そを見 そを嗅げば、
嬉しさ心に充つ、
悲しくも友に離りて
ひとり 唯独り 我が立つは丸善の洋書棚の前、
セザンヌはなく、レンブラントはもち去られ、
マチス 心をよろこばさず、
独り 唯ひとり、心に浮ぶ楽しみ、
秘やかにレモンを探り、
色のよき 本を積み重ね、
その上にレモンをのせて見る、
ひとり唯ひとり数歩へだたり
それを眺む、美しきかな、
丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、
ほほえまいて またそれをとる、冷さは熱ある手に快く
その匂いはやめる胸にしみ入る、
奇しきことぞ 丸善の棚に澄むはレモン
企らみてその前を去り
ほほえみて それを見ず、
梶井基次郎
「梶井基次郎全集」所収
1922