孤独

孤独が 孤独を 生み落す
ごらん
ようやく立てたばかりの幼児の顔の
時として そそけだつような寂しさ
風に 髪なんぞ ぽやぽやさせて

孤独が 孤独を 生み落す
子の孤独が孵って一人旅立つ
親の孤独がその頃になってあわてふためくのは
笑止なはなしである

厖大に残された経文のなかに
たった一箇所だけ
人間の定義と目されるところがあり
<境をひくもの>とあるそうな
ずいぶん古くからの認識だが
いまだにとっくり呑みこめてはいない
それはとどのつまりではなく
そもそもの出発点

もぐらは土のなかで生き
さくらはふぶく
渡り鳥は二つのふるさとを持ち
海はまあるくまるく逆巻かざるをえない
人間に特有の附帯条件もまたあろうではないか

茨木のり子
自分の感受性くらい」所収
1977

青蜜柑

ある日
白昼の昼のプラットフォームに電車を待っていて
とつぜん自分のからだがばらばらに分解するような激動を感じたという
それは一瞬のうちに消えたが
わけが分からず
たいそう恐ろしかったという
そのあとすぐに
かつて覚えたことのない深い疲れが全身に広がっていった
健康に自信を持っていた男だが
ああ、おれは近いうちに死ぬんだな、と思ったそうだ

男はまもなく死病にとりつかれ
あの世に行った
臨終は
すごい苦しみようだったという

同じことが精神にも起こらないだろうか
ある日
べつの男が一人の部屋で青蜜柑をむきながら夜をむかえようとする
とつぜん男の精神がばらばらに砕かれる
落日が
とてつもなく大きく見えてくる
そのあとすぐに暗くなって
男は大きなため息をつく
「地獄へだってなかなか行けやしない」

北村太郎
「ピアノ線の夢」所収
1980

水分について

崖の下で やぶ椿や楊梅の毛根があらわに垂れ下っている場所に湧き水があって 水のカプセルである洞の あのいい匂いは水からのものだとその頃は信じていた。
たしかに水の香というものはあるのだ 断じて無味無臭などではなく。
微量の塩分の臭いは むしろ甘さとして感じられる。鉄分の強い臭いが実際はポンプの錆のせいだった というような間違いは無数にあった。南島の水には大きな雨雲のかたまりの湿った匂いがあった。
どの地方でも 幼い子供を抱き上げると 子供の躰からその土地の水がかすかに匂った。

  *

ゆきおばさんがすき
ゆきおばさんの顔まるいね
そばかす あるのね
ねえ おばさんのにおいかがせて
手のにおい
きもののにおい
お乳のにおい
かがせて!

  *

水分が蒸発してゆくのがわかる。やわらかで無防備な部分からまずかわき 表面が硬化してゆくその時間は思いのほか短い。
急速なかわきがものの内部まで及ぶころ 最初の細い亀裂が一直線に表皮を走る。稲妻のように鋭く。次第に亀裂の溝が楔状に深まるとともに たて よこ ななめ 四方八方へ蜘蛛の巣のように拡がり 表層部分が割れてついに最初のさけ目の深さがものの底部にまで達する。そうなればもういなおるしかない。水仙や薔薇が枯れ花瓶のガラスまでが割れて散らばるが気にはならない。すべての塗料がぺらぺらとまくれ上がって剥がれ 床があお向けに反り返り 戸障子の立て付けが狂う。その頃には天井板の隙間から星空がのぞけるようになる。むろんすべての器具類も同様にすでに破壊されているので使いものにはならないがそればかりでなく いきものそのものも乾燥してゆくのだから全身のヒフが垂れ下がるまでになるのは当然として 骨までもがちぢんでゆくとは知らなかった。 大人は子供の 子供は人形ほどに小さく硬く種子のように凝固し石化してゆくのだ。
こうしてすべてが石化し終わったあと 石そのものも激しく涸き 太い亀裂が走って粉々に割れる。ついにものは水の呪縛から解放されたのだ。もういちど雨季が訪れるまで。

  *

いちど眠ってから 夜ふけにめざめて蛇口をひねることがある。コップ一杯の水道の水がまっすぐに咽喉を下ってゆく。
無味乾燥のその水はどこにゆくのだろうか。
水を飲んだあとに 夢を見ることはない。

新井豊美
「いすろまにあ」所収
1984

風の女

風に吹かれていると
たよりない柳になったようで
いとしさが溢れてくるから
女は愛撫に身を跼め
髪に手をやり うなじをすくめる
捲きあげられるスカートを押え
見えない橇に乗ろうと
永遠にむかって身構える
ずっと遠くへ連れていってもらえば
たぶん願いは叶えられると
まばゆさに 想像の野火を放つ
光のなかにゆらぐ影が
渦をつくり 不確かな形になって 流れ
くずれて 駆けぬけ
樹々の梢をからかったり
枯葉を追い立てて遊んだかと思うと
とつぜん引き払ってしまう
ハルイチバンになる前に
いくども名前が変ったのだ
その土地と結婚するたびに
ハエ ニシ ミナミ と数えてみて
三界に住む家なしと共感する
風が落していった春龍胆の花は青い
手をさしのべて身替りを愛撫すれば
また吹いてくる
常緑樹の葉は厚くて
太陽を照り返して無情にゆれる
やわらかい葉に憧れて
こんどは立ったまま顔に受ける
押されてよろめき
はずかしい姿勢の快感に小さく叫んだのは
盲いた歌
いつのまにか このあたりに住みついていた姿を見せない鬼
日傘は飛ばされてしまった
もともと理性など要らなかったのだと分って女は笑いだす
侮蔑を忘れようと
からかい返すように 誘うように
身もだえて語りかける
応えて また襲ってきたハルイチバンが
高下駄を踏み鳴し
天狗の団扇をうち振って
カラカラと哄笑する
その晩
女は透明になった夢を見る
肉体がないから
いつもより感じやすくて
流浪する風の女は
からだのすみずみを撫でられ
声もたてずに地獄へと昇天する

辻井喬
「ようなき人の」所収
1989

あれは海猫

あれは海猫
あれはかもめ
なき声を聞きわけて教えてくれた人

これは巻貝
これは二枚貝
てのひらにのせて 教えてくれた人

海と母
思い出は波の匂いのようにわきあがる

サトウハチロー
おかあさん」所収
1961

私が豆の煮方を

私が豆の煮方を工夫しこげつきにあわてているひまに
あなたは人間の不条理についてお考えです
私が小さい物たちのあすの運動着のことや
あかいピン止めも買ってやろうかと財布をのぞいて迷っている時
あなたは我々の共通の運命についてお思いなさり
あなたは磁石の接近で一時に整頓する鉄砂のように
すべての事が解決できるとお思いです

私が小さい乳母車を押して
道のでこぼこに行き悩むとき
あなたは力強い回転で雪をはねとばすラッセル車のように
いつも物事を解決される

私のみみっちいのは 女の生まれつきか
腕の力がちがうのか 心の力もちがうのか
それでも私は自分のあり方でしか行けず
私は地面を刺繍するように一歩ずつしか進めない。
きっとあなたは遠い遠いことをお考えなさり
でも私は自分の小さい針で
こころこめて刺すことしかできないのです。

それは不要のこと甲斐のないムダでしょうか
あなたを補ってはいないでしょうか

もしか三月、葡萄の木の根元をたがやし
よい土入れをしてやるように──
そして五月、みのりすぎた実をまびいて
一粒ずつを大事に大きくするように──
熟れゆく葡萄はそのことをいつも喜びはしないでしょうか

永瀬清子
「あけがたにくる人よ」所収
1987

屋根

日本の家は屋根が低い
貧しい家ほど余計に低い、

その屋根の低さが
私の背中にのしかかる。

この屋根の重さは何か
十歩はなれて見入れば
家の上にあるもの
天空の青さではなく
血の色の濃さである。

私をとらえて行く手をはばむもの
私の力のその一軒の狭さにとぢこめて
費消させるもの、

病父は屋根の上に住む
義母は屋根の上に住む
きょうだいもまた屋根の上に住む。

風吹けばぺこりと鳴る
あのトタンの
吹けば飛ぶばかりの
せいぜい十坪程の屋根の上に、
みれば
大根ものっている
米ものっている
そして寝床のあたたかさ。

負えという
この屋根の重みに
女、私の春が暮れる
遠く遠く日が沈む。

石垣りん
私の前にある鍋とお釜と燃える火と」所収
1959

クロとぼく

学校から帰ってきた ぼくの
足音めがけて
クロが とっしんしてくる

めちゃなきの
めちゃかみの
めちゃめちゃなめだ

ぼくを待ちくたびれながら
そこらに書きちらしたらしい
でたらめの「すき」という字を
なん百 なん千
はねちらかし けちらかし

ぼくはクロをだいて
山のように どっかと座って
世界中を にらみまわしてやる

もしも ライオンとトラとヒョウと
オオカミとワニが
一どに
クロにとびかかってきたいのなら
いつでもこい! というように

まどみちお
まめつぶうた」所収
1973

この失敗にもかかわらず

五月の風にのって
英語の朗読がきこえてくる
裏の家の大学生の声
ついで日本語の逐次訳が追いかける
どこかで発表しなければならないのか
よそゆきの気取った声で
英語と日本語交互に織りなし

その若々しさに
手を休め
聴きいれば

この失敗にもかかわらず……
この失敗にもかかわらず……
そこで はたりと 沈黙がきた
どうしたの? その先は

失恋の痛手にわかに疼きだしたのか
あるいは深い思索の淵に
突然ひきずり込まれたのか
吹きぬける風に
ふたたび彼の声はのらず
あとはライラックの匂いばかり

原文は知らないが
あとは私が続けよう
そう
この失敗にもかかわらず
私もまた生きてゆかねばならない
なぜかは知らず
生きている以上 生きものの味方をして

茨木のり子
寸志」所収
1982

棒高跳び

彼は地蜂のように
長い棒をさげて駆けてくる
そして当然のごとく空に浮び
上昇する地平線を追いあげる
ついに一つの限界を飛びこえると
彼は支えるものを突きすてた
彼には落下があるばかりだ
おお 力なくおちる
いまや醜く地上に顛倒する彼の上へ
突如 ふたたび
地平線がおりてきて
はげしく彼の肩を打つ

村野四郎
体操詩集」所収
1939