水分について

崖の下で やぶ椿や楊梅の毛根があらわに垂れ下っている場所に湧き水があって 水のカプセルである洞の あのいい匂いは水からのものだとその頃は信じていた。
たしかに水の香というものはあるのだ 断じて無味無臭などではなく。
微量の塩分の臭いは むしろ甘さとして感じられる。鉄分の強い臭いが実際はポンプの錆のせいだった というような間違いは無数にあった。南島の水には大きな雨雲のかたまりの湿った匂いがあった。
どの地方でも 幼い子供を抱き上げると 子供の躰からその土地の水がかすかに匂った。

  *

ゆきおばさんがすき
ゆきおばさんの顔まるいね
そばかす あるのね
ねえ おばさんのにおいかがせて
手のにおい
きもののにおい
お乳のにおい
かがせて!

  *

水分が蒸発してゆくのがわかる。やわらかで無防備な部分からまずかわき 表面が硬化してゆくその時間は思いのほか短い。
急速なかわきがものの内部まで及ぶころ 最初の細い亀裂が一直線に表皮を走る。稲妻のように鋭く。次第に亀裂の溝が楔状に深まるとともに たて よこ ななめ 四方八方へ蜘蛛の巣のように拡がり 表層部分が割れてついに最初のさけ目の深さがものの底部にまで達する。そうなればもういなおるしかない。水仙や薔薇が枯れ花瓶のガラスまでが割れて散らばるが気にはならない。すべての塗料がぺらぺらとまくれ上がって剥がれ 床があお向けに反り返り 戸障子の立て付けが狂う。その頃には天井板の隙間から星空がのぞけるようになる。むろんすべての器具類も同様にすでに破壊されているので使いものにはならないがそればかりでなく いきものそのものも乾燥してゆくのだから全身のヒフが垂れ下がるまでになるのは当然として 骨までもがちぢんでゆくとは知らなかった。 大人は子供の 子供は人形ほどに小さく硬く種子のように凝固し石化してゆくのだ。
こうしてすべてが石化し終わったあと 石そのものも激しく涸き 太い亀裂が走って粉々に割れる。ついにものは水の呪縛から解放されたのだ。もういちど雨季が訪れるまで。

  *

いちど眠ってから 夜ふけにめざめて蛇口をひねることがある。コップ一杯の水道の水がまっすぐに咽喉を下ってゆく。
無味乾燥のその水はどこにゆくのだろうか。
水を飲んだあとに 夢を見ることはない。

新井豊美
「いすろまにあ」所収
1984

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