若者は海で生まれた。
風を孕んだ帆の乳房で育つた。
すばらしく巨きくなつた。
或る日 海へ出て
彼は もう 帰らない。
もしかするとあのどつしりした足どりで
海へ大股に歩み込んだのだ。
とり残された者どもは
泣いて小さな墓をたてた。
佐藤春夫
1964
若者は海で生まれた。
風を孕んだ帆の乳房で育つた。
すばらしく巨きくなつた。
或る日 海へ出て
彼は もう 帰らない。
もしかするとあのどつしりした足どりで
海へ大股に歩み込んだのだ。
とり残された者どもは
泣いて小さな墓をたてた。
佐藤春夫
1964
焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて
肥つた三歳ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。
八百屋の店には萎えた野菜。
病院の窓の窓掛は垂れて動かず。
閉された幼堆園の鉄の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すべて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子の花が死落ち
生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。
病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、
横町の下宿から出て進み来る、
夏の恐怖に物も言はぬ脚気患者の葬りの列。
それを見て辻の巡査は出かゝつた欠伸噛みしめ、
白犬は思ふさまのびをして
塵溜の蔭に行く。
焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌条の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて
肥つた三歳ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く
石川啄木
「心の姿の研究」所収
1909
げに、かの場末の縁日の夜の
活動写真の小屋の中に、
青臭きアセチリン瓦斯の漂へる中に、
鋭くも響きわたりし
秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。
ひよろろろと鳴りて消ゆれば、
あたり忽ち暗くなりて、
薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。
やがて、また、ひよろろと鳴れば、
声嗄れし説明者こそ、
西洋の幽霊の如き手つきをして、
くどくどと何事をか語り出でけれ。
我はただ涙ぐまれき。
されど、そは三年も前の記憶なり。
はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、
同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、
ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、
ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。
──ひよろろろと、
また、ひよろろろと──
我は、ふと、涙ぐまれぬ。
げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、
今も猶昔のごとし。
石川啄木
「呼子と口笛」所収
1911
みろ
太陽はいま世界のはてから上るところだ
此の朝霧の街と家家
此の朝あけの鋭い光線
まづ木木の梢のてつぺんからして
新鮮な意識をあたへる
みづみづしい空よ
からすがなき
すすめがなき
ひとびとはかつきりと目ざめ
おきいで
そして言ふ
お早う
お早うと
よろこびと力に満ちてはつきりと
おお此の言葉は生きてゐる!
何という美しいことばであらう
此の言葉の中に人間の純さはいまも残つてゐる
此の言葉より人間の一日ははじまる
山村暮鳥
「風は草木にささやいた」所収
1918