遺伝

人家は地面にへたばつて

おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。

さびしいまつ暗な自然の中で

動物は恐れにふるへ

なにかの夢魔におびやかされ

かなしく青ざめて吠えてゐます。

のをあある とをあある やわあ

 

もろこしの葉は風に吹かれて

さわさわと闇に鳴つてる。

お聽き! しづかにして

道路の向うで吠えてゐる

あれは犬の遠吠だよ。

のをあある とをあある やわあ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢ゑてゐるのです。」

 

遠くの空の微光の方から

ふるへる物象のかげの方から

犬はかれらの敵を眺めた

遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに

あはれな先祖のすがたをかんじた。

 

犬のこころは恐れに青ざめ

夜陰の道路にながく吠える。

のをあある とをあある のをあある やわああ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢ゑてゐるのですよ。」

 

萩原朔太郎

青猫」所収

1923

黒板

病室の窓の

白いカーテンに

午後の陽がさして

教室のようだ

中学生の時分

私の好きだった若い英語教師が

黒板消しでチョークの字を

きれいに消して

リーダーを小脇に

午後の陽を肩さきに受けて

じゃ諸君と教室を出て行った

ちょうどあのように

私も人生を去りたい

すべてをさっと消して

じゃ諸君と言って

 

高見順

死の淵より」所収

1964

 夕暮とともにどこから来たのか一人の若い男が、木立に隠れて池の中へ空気銃を射つてゐた。水を切る散弾の音が築山のかげで本を読んでゐる私に聞えてきた。波紋の中に白い花菖蒲が咲いてゐた。

 

 築地の裾を、めあてのない遑だしさで急いでくる蝦蟇の群。その腹は山梔の花のやうに白く、細い疵が斜めに貫いたまま、なほ水掻で一つが一つの背なかを捉へてゐる。そのあとに冷たいものを流して、たとへばあの遠い星へまでもと、悪夢のやうに重たいものを踏んでくる蝦蟇の群。

 

 瞳をかへした頁の上に、私は古い指紋を見た。私は本を閉ぢて部屋に帰つた。その一日が暮れてしまふまで、私の額の中に散弾が水を切り、白い花菖蒲が揺れてゐた。

 

三好達治

測量船」所収

1930

ある街裏にて

ここは失敗と勝利と堕落とボロと

淫売と人殺しと

貧乏と詐欺と

煤と埃と饑渇と寒気と

押し合ひへし合ひ衝き倒し

人人の食べものを引きたくり

気狂ひと癲癇病みのやうな乞食と

恥知らずの餓鬼道の都市だ

やさしい魂をもつたものは脅かされたり

威かされたりして

しまひに図図しい盗人になるのだ

肺病やみや伝染病者や

生涯どうにもならないものらまで

這ひまはつて うじのやうに

その黴菌をふり散らして歩くことにより

自分の瀕死的な境遇の仇を打つところだ

女は無垢を破られたり

金に売られたり

畜妾や 畜生同棲や

師匠の妻をたぶらす子弟や

ここに正義も人道もない

下劣な利己主義者の群があるばかりだ

又すべての芸術志望者らの虐げられた生活は

極貧とたたかつて

ただ一本の燐寸のやうに瘠せほそつて

餓鬼道のやうに吠え立つてゐるところだ

空気はいつも湿け込んで

灰ばんでゐるのであつた

人間の心を温かにするものは無く

又不幸な魂を救ふべきことも為されてゐない

みんなはありのままに

ありのままなのら犬のやうに生きてゆく

 

室生犀星

愛の詩集」所収

1918

わが半生

私は随分苦労して来た。

それがどうした苦労であったか、

語ろうなぞとはつゆさえ思わぬ。

またその苦労が果して価値の

あったものかなかったものか、

そんなことなぞ考えてもみぬ。

 

とにかく私は苦労して来た。

苦労して来たことであった!

そして、今、此処、机の前の、

自分を見出すばっかりだ。

じっと手を出し眺めるほどの

ことしか私は出来ないのだ。

 

   外では今宵、木の葉がそよぐ。

   はるかな気持の、春の宵だ。

   そして私は、静かに死ぬる、

   坐ったまんまで、死んでゆくのだ。

 

中原中也

在りし日の歌」所収

1936

暗い夏の晩

暗い夏の晩だつた

街のなかもまた妙に暗かつた

どこかに祭でもあるらしく

多勢の人手がみな黒い影になり

賑かに行き来してゐた

私もその中にまじりながら

ひとりであるいてゐた

なんだか人々の背後の世界を歩いてゐるやうな気がしてゐた

或る町角へくると

戸板の上に蝋燭をたてて売つてゐるのがあつた

消えることのない蝋燭だといふのであつた

いくほんもたち並んでゐる蝋燭の灯が

暗い風にゆれなびきながら

消えることがなかつた

 

高橋元吉

高橋元吉詩集」所収

1962

君は知つてゐるか

全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを

赤ん坊が乳を呑む時、涙ぐむやうに

冷たい飯を頬張ると

餘りのうまさに自ら笑ひが頬を崩し

眼に涙が浮ぶのを知つてゐるか

うまいものを食ふ喜びを知つてゐるか、

全身で働いたあとで飯を食ふ喜び

自分は心から感謝する。

 

千家元麿

自分は見た」所収

1918

初めて子供を

初めて子供を

草原で地の上に下ろして立たした時

子供は下ばかり向いて、

立つたり、しやがんだりして

一歩も動かず

笑つて笑つて笑ひぬいた、

恐さうに立つては嬉しくなり、そうつとしやがんで笑ひ

その可笑しかつた事

自分と子供は顔を見合はしては笑つた。

可笑しな奴と自分はあたりを見廻して笑ふと

子供はそつとしやがんで笑ひ

いつまでもいつまでも一つ所で

悠々と立つたりしやがんだり

小さな身をふるはして

喜んでゐた。

 

千家元麿

自分は見た」所収

1918

 

 

無題

屋根又屋根、眼界のとゞく限りを

すき間もなく埋めた屋根!

円い屋根、高い屋根、おしつぶされたやうな屋根、

おしつぶされつして、或ものは地にしがみつき、

或は空にぬき出ようとしてゐる屋根!

その上に忠実な教師の目のやうに、

秋の光がほかほかと照りわたつてゐる。

 

とらへやうもない、

然し乍ら魂の礎石までゆるがすやうな

あゝ、あの都会のとゞろき……

 

初めてこの都会に来て此景色を眺め

この物音をきいた時、

弱い田舎者の心はおびえた──

広さ、にではない、高さに、ではない、又

其処にいとなまるゝ文明の尊さにでもない、

あのはかりがたい物音の底の底の──

都会の底のふかさに。

 

今また此処に来て此景色を眺め、

そしてこの物音をきいて、

よわく、新らしい都会の帰化人の心はおびえる──

獅子かひが獅子の眠りに見入つた時の心もて、──

あのとらへがたき物音の底の底の──

入れども入れどもはかりがたき都会の底のふかさに。

 

すべての生徒の欲望をひとしなみにみる

忠実なる我が教師よ、

そなたはそなたの欲望と生徒の欲望を

またひとしなみに見るか?

 

花は精液の香をはなちて散り、

人は精力の汗を流して死ぬ。

それらは花と人との欲望のすべてか。

教師よ、そなたの愛は、――

雨とふり日とそゝぐそなたの愛は、

人の………

 

見よ、数へきれぬ煙突!

その下には死なうとする努力と死ぬまいとする欲望と……

あゝあの騒然たる物音! 

人間は住居の上に屋根を作つた。

その上に日が照る。

屋根は人間の最上の智慧 !!

又反抗、又運命である。

そして

その上に日が照る。

 

あゝ、我は帰らうか? はた帰るまいか?

あの屋根! 眼界のとゞく限りを

すき間もなく埋めた屋根の下へ。

 

石川啄木

心の姿の研究」所収

1909

旅上

ふらんすへ行きたしと思へども

ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背廣をきて

きままなる旅にいでてみん。

汽車が山道をゆくとき

みづいろの窓によりかかりて

われひとりうれしきことをおもはむ

五月の朝のしののめ

うら若草のもえいづる心まかせに。

 

萩原朔太郎

純情小曲集」所収

1925