わたしの猫はずゐぶんと齢をとつてゐるのだ
毛なみもよごれて日暮れの窓枠の上に
うつつなく消えゆく日影を惜しむでゐるのだ
蛤のやうな顔に糸をひいて
二つの眼がいつも眠つてゐるのだ
わたしの猫はずゐぶんと齢をとつてゐるのだ
眠つてゐる二つの眼から銀のやうな涙をながし
日が暮れて寒さのために眼がさめると
暗くなつたあたりの風景に驚いて
自分の涙をみるくとまちがへて舐めてしまふのだ
わたしの猫はずゐぶんと齢をとつてゐるのだ
三好達治
「測量船」所収
1930
祈る言葉を知らざれば
われは祈らざるなり。
魂の安さは人に託すべきものにあらず。
たきものの烟にむせかへるとも
亡せ行きたる人は幸にあらず。
声を合せて呼び、そそりたつるとも
その生命が背負ひたる泥を黄金とするあたはじ。
誰か空なる同感と
嵐に驚きたる感激とに迷はんや。
われはただとこしへに御身を見る。
相並びて行くべき道を歩むべきのみ。
御身はさらに明かに生きよ。
御身が負へるものを
何人も代る能はざるなり。
祈る言葉を知らざれば
われは祈らざるなり。
水野葉船
1947
胴体から
首が
離れていていいわけはないように
指が腕から
足が脚から
離れていていいわけはない
しかし
腕から指が
脚から足が
離ればなれに飛散している情景は
鳥の一瞥が
その小さな網膜に まざまざと焼付けている
鳥は墜ちても
その情景は、小さな網膜と倶に腐化し去ることはないであろう
飛散した指は
足は
首は
その位置を恢復せねばならぬ
その位置を恢復せねばならぬ
(飛散した指が 足が 首が 瞑目するのはそのときである)
北川冬彦
「北川冬彦全詩集」所収
1988
南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。
西脇順三郎
「Ambarvalia」所収
1933
ねむることによって毎日死を経験しているのに
不眠症にかかるなんて
なんと非人間的な苦しみだろう
毎日死を経験しないために
ほんとうに死にたいと思うのは
ごく自然ななりゆきだが
でも
死なないでくれきみがひとつかみの骨になるなんて
よくそんな勝手なことがいえるわね
よけいなお世話よ死ぬって
眠りだけど永遠のおやすみなの
わたしの目を吊り上がらせ
わたしのまんなかに鉛を入れたのは
あなたじゃない
わたしの暖かい骨は
きっと鉛まぶしよ
鉛まぶしで
永遠にやすめるならさめた白湯だって
おいしくなるよ
永遠なんて信じてないくせに
木の葉みたいにことばをつかうな
たしかに自殺ってこのうえなく論理的な死だけど
論理なんてたたみ鰯で
すきまだらけなんだ
こんどはお説教ね
あなたはわたしが死ぬのが恐ろしいのね
しんしんと降りつづく雪って
一瞬ごとに表情が変わっている
だからあなたが
われは昔のわれならずって顔をしても
わたしちっとも驚きはしないただ
あなたのロマンチシズムってとってもいや
きらうなら好きなだけきらうがいいでも
死ぬな
きみが死んだってちっともこわくないけど
永遠を信じていない者の死に
意味をつけるのがとてもつらいのだ
ぼくは少なくとも「半分の永遠」を信じてる
死は死んだのかと冬の林に
大声で叫びたい
叫べるの
ほんとうは叫びたくないのでしょう偽善者め
あなたが取り乱すの初めて見たわ
あなたは
狡猾で残忍で冷酷よ
さんざわたしを楽しんだりして
わたしがわたしの生をどう始末しても
あなたの知ったことじゃないでしょう
光り
夕方の海に見たひとすじの光りが
雨戸をあけた朝
同じところにあった
ぼくは失神しそうになって
「半分の永遠」を信じたというわけだ
きみはぼくを理解しているらしい
「半分の死」の地点から
わたしはくたびれてるのに
からだじゅうの毛がみんな立ってるの
もう口をききたくない
ことばを覚えてよかったのは
ただ悪罵を自由にいえるからなんて
気がくるいそう
勝手に海の光りを大事になさい
わたしは一晩じゅう降る雪を見てるわ
*
**
死は死んだのか死なないのか
死なない死って何だろう
鳥たちゃ鳥のなかで死ぬ
猫たちゃ猫のなかで死ぬ
ひとはいつでもひとのそと
生まれるときも死ぬときも
だからいのちをたいせつに?
だから死ぬのもたいせつに?
北村太郎
「あかつき闇」所収
1978
胡桃ほどの大きさの
その脳みそで
死んだ子の
顔はおぼえてゐないのだね
ただ 数だけの
ひとつ といふ数だけの
おぼろげな記憶?
おまへが 誰に教はりもしないのに
袋を破って 袋を食べて
あの子の毛並がふんはり立つほどなめて それから
両端から嚙みつぶすやうに止血しながら
上手にヘソの緒を切るのを見たとき
ほとんど <神>を信じさうになった
(<本能>といふことばでは足りなかった!)
でもその時すでに あの子は息をしてゐなかったのだ
わたしが 雪を掘って
雪の下の土を掘って
椿の根もとに 埋めたのだよ
もうひとつ 袋のままの未熟児といっしょに
(あの子には 初めから見向きもしなかった
だから 数にも入ってゐないらしいけれど)
驚いたことに
それから三日たって
おまへはもう一度 死んだ子とそっくりの子を一匹産んだ
こんどはひっそり
わたしを呼びもせず
わたしに いっしょにいきませもせずに
けれどおまへには相変わらず
ひとつ といふ欠落の記憶があったのか
(うらやましいことに
たぶん<かなしみ>の記憶ではなく
それでおまへは 一匹を盗む
十日前に同じ種の子を四匹産んだ 実の母から
戻しても 戻しても
一匹だけを盗む
(この三日間さうしつづけてきたやうに)
母親は 怒りもせずにそれを見てゐる
やがて突然 あとの三匹の仔猫ごと
娘の傍らに引き移って
やさしく やさしく 娘をなめる
娘はまた ぜんぶの子たちを抱きかかへ
息もつかせず なめつくす
<愛>と呼んではいけないのだらうか
親子 姉弟 恋がたき同士入り乱れ
ある子は祖母の ある子は姉の
マッチ棒の先ほどの可愛い乳首にすがりつき
眠ってはなめ なめては眠り
<かなしみ>さへも宿らない
おまへたちの 胡桃ほどの脳に
宿ってゐる何かを
その深い安らぎを
<愛>と呼んでは いけないのだらうか
わたしたちの
梨の実ほどの脳で
吉原幸子
「ブラックバードを見た日」所収
1986
庭いちめんの
桜の花びら踏みしめて
姫気分となった朝
空も桃いろになまめいて
遠くの海に溶けていった
きれいなものはぬすんでいいのよ
そんな声がする
いい匂いするから
全部ぜんぶ
開けてね
窓も こころも
千年の血をしたたらせる花の
そんな声が
わたしのこころをぬすんだひとはいなかった
あのひとたちのこころ
にぎりしめたことはなかった
わたしのこころを捧げたかった
咲いた色のまま
うるわしく老いて
風をふるわせ
花はこころを閉じない
ついに訪れなかったものを待ちながら
らんまんと
花は
手のひらを透かして
ひとつひとつの約束をたぐりよせる
記憶がこころを殺す
生きられないから
忘れる
桜は吹雪き
なにもかも 忘れる
崖のふちで花の小枝に手をのばすと
たけのこが
眼の下の竹林からいっせいに空を刺し
わたしの眼に飛びこんでいる
さて 今夕
たけのこを煮て 山椒散らして食べること
新藤涼子
「薔薇ふみ」所収
1985