地球生成の かげを 辿って
あるいてゆく 人がいる
永久に 空っぽの ルックを背負い
やぶれた 認識の シャッポを かぶり
露出した 観念の 岩と岩の間を
秋天に 浮かみ出たり また隠れたり
こんな わびしい 涸渇の道を
その人は 一人で あるいている
蔵原伸二郎
「乾いた道」所収
1954
月映えの、露の野道の
ほんの濃い、向うの靄で。
ぼうわう、ぼうわう、
あ、なにかしろく吠えてる。
水芋のてらてらの葉の
その前を、音はしてたが、
ぼうわう、ぼうわう、
お、誰か、ひきかへしてる。
美しい童よ、角髪の子よ、
怖がるでない、怖がるでない。
ぼうわう、ぼうわう、
あれはただ吠えるだけだよ。
月がまた雲を呼ぶのだ、
ぼうとした紫なのだ。
ぼうわう、ぼうわう、
小さい蛾までが輝くのだ。
な、みんなが思ひ出すのだ、かうした晩は、
美しい童よ、童のむかしを。
ぼうわう、ぼうわう、
前の世の聖母の円かな肩を。
匂やかであつた、世界は。ふじぎぬのやうな
光と空気とに織られてゐた。
ぼうわう、ぼうわう、
ああした夜露にも吠えてゐた何かだつたよ。
北原白秋
「海豹と雲」所収
1929
外から砂鉄の臭ひを持つて来る海際の午後。
象の戯れるやうな濤の呻吟は
畳の上に横へる身体を
分解しようと揉んでまはる。
私は或日珍しくもない原素に成つて
重いメランコリイの底へ沈んでしまふであらう。
えたいの知れぬ此のひと時の衰へよ、
身動きもできない痺れが
筋肉のあたりを延びてゆく・・・・・
限りない物思ひのあるやうな、空しさ。
鑠ける光線に続がれて
目まぐるしい蝿のひと群れが旋る。
私は或日、砂地の影へ身を潜めて
水月のやうに音もなく溶け入るであらう。
太陽は紅いイリュウジョンを夢見てゐる、
私は不思議な役割をつとめてるのではないか。
無花果樹の陰の籐椅子や、
まいまいつむりの脆い殻のあたりへ
私は蝿の群となつて舞ひに行く。
壁の廻りの紛れ易い模様にも
ちょつと臀を突き出して止まつて見た。
窓の下に死にゆくやうな尨犬よ。
私はいつしかその上で渦巻き初める、
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砂鉄の臭ひの懶いひとすぢ。
三富朽葉
「三富朽葉詩集」所収
1926
僕はいま小さい家庭をつくりかけてゐる
まるで小鳥の巣に似たやうなものを
自分は毎日
二つの心を持ち合って
一枚のまづしい蓆を編むやうに
たてとよことの糸をよりあわせてゐる
自分はこの小さい家庭を愛する
この小さい家庭にまだ幸福は来てゐない
平安が宿つてゐない
秩序がない
けれども生命に充ちてゐる
温かい日常の心はうるはしく澄んでゐる
自分をそこなふものとは戦ふ
自分を愛しないものには愛させるやうにする
いやな世界とも戦ふ
真実でないものとも戦ふ
自分のこの小さく優しい犠牲の精神は
自分にとつて永い味方であり
自分を鎧ふべききびしい味方だ
土を掘るやうな新しさと胸打つ鼓動を感じ合ひながら
少しづつ築き上げ
また盛り上げてゐる
暁明がくるとともに
ぱちぱち燃える薪の音がする
空では星がきえ始める
僕は起き出てそれに従ふ
この世の愉快なくるしいどよみに従ふ
机の上には塵も見えない
書物はみな一つ一つに呼吸をして
あついペエジの羽ばたきをやる
妻は木綿の朝のきものをきて
もう猛り立つ犬と庭で遊んでゐる
僕もその仲間にはいる
犬は高く高く吠え猛つて
朝の挨拶をする
僕らもする
室生犀星
「第二愛の詩集」所収
1919
自然は限りなく美しく永久に住民は
貧窮してゐた
幾度もいくども烈しくくり返し
岩礁にぶちつかつた後に
波がちり散りに泡沫になつて退きながら
各自ぶつぶつと呟くのを
私は海岸で眺めたことがある
絶えず此処で私が見た帰郷者たちは
正にその通りであつた
その不思議に一様な独言は私に同感的でなく
非常に常識的にきこえた
(まつたく!いまは故郷に美しいものはない)
どうして(いまは)だらう!
美しい故郷は
それが彼らの実に空しい宿題であることを
無数の古来の詩の賛美が証明する
曽てこの自然の中で
それと同じく美しく住民が生きたと
私は信じ得ない
ただ多くの不平と辛苦ののちに
晏如として彼らの皆が
あそ処で一基の墓となつてゐるのが
私を慰めいくらか幸福にしたのである
伊東静雄
「わがひとに与ふる哀歌」所収
1935
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波うち
芒ぼうぼうとひとをうづめる
半ば狂へる妻は草を藉いて座し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
──わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途無き魂との別離
その不可抗の予感
──わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃として二人をつつむこの天地と一つになつた
高村光太郎
「智恵子抄」所収
1938