月映えの、露の野道の
ほんの濃い、向うの靄で。
ぼうわう、ぼうわう、
あ、なにかしろく吠えてる。
水芋のてらてらの葉の
その前を、音はしてたが、
ぼうわう、ぼうわう、
お、誰か、ひきかへしてる。
美しい童よ、角髪の子よ、
怖がるでない、怖がるでない。
ぼうわう、ぼうわう、
あれはただ吠えるだけだよ。
月がまた雲を呼ぶのだ、
ぼうとした紫なのだ。
ぼうわう、ぼうわう、
小さい蛾までが輝くのだ。
な、みんなが思ひ出すのだ、かうした晩は、
美しい童よ、童のむかしを。
ぼうわう、ぼうわう、
前の世の聖母の円かな肩を。
匂やかであつた、世界は。ふじぎぬのやうな
光と空気とに織られてゐた。
ぼうわう、ぼうわう、
ああした夜露にも吠えてゐた何かだつたよ。
北原白秋
「海豹と雲」所収
1929