ねずみ

生死の生をほっぽり出して

ねずみが一匹浮彫りみたいに

往来のまんなかにもりあがっていた

まもなくねずみはひらたくなった

いろんな

車輪が

すべって来ては

あいろんみたいにねずみをのした

ねずみはだんだんひらくたくなった

ひらたくなるにしたがって

ねずみは

ねずみ一匹の

ねずみでもなければ一匹でもなくなって

その死の影すら消え果てた

ある日 往来に出てみると

ひらたい物が一枚

陽にたたかれて反っていた

 

山之口獏

鮪に鰯」所収

1964

鳥の意思、それは静かに

時間がないと

あなたの声がして

水色のひかりが

瞬き続けるのが見えた

 

深淵を覗き込もうとする無数の眼を

ひたすらかき分けて進む

子どものような眼で

誰も知らない街へ会いにゆきたい

 

わたしたちは違うが故に平等であると

思うのだけれど

その意識はほんとうか

誰もが理想を隠し持っていて

そのことは驚くにはあたらない

 

一本の線から

たちまち拡がってゆく概念が

わたしを怯えさせ

そして支え続けている

地平に燃え拡がってゆくのだ

静かに 簡潔に

意思となるだろう前提を秘めて

遠く

 

静かな瞬きは

やがて白く大きな鳥に変わり

我々を乗せて

ずっと淡くけぶる水平線の向こうまで

飛んでゆくのだ

 

宮岡絵美

鳥の意思、それは静かに」所収

2012

牛はのろのろと歩く

牛は野でも山でも道でも川でも

自分の行きたいところへは

まつすぐに行く

牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない

がちり、がちりと

牛は砂を堀り土を掘り石をはねとばし

やっぱり牛はのろのろと歩く

牛は急ぐ事をしない

牛は力一ぱいに地面を頼つて行く

自分を載せている自然の力を信じ切って行く

ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はって行く

ふみ出す足は必然だ

うわの空の事ではない

是でも非でも

出さないではいられない足を出す

牛だ

出したが最後

牛は後へはかえらない

足が地面へめり込んでもかえらない

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く

牛はがむしゃらではない

けれどもかなりがむしゃらだ

邪魔なものは二本の角にひっかける

牛は非道をしない

牛はただ為たい事をする

自然に為たくなる事をする

牛は判断をしない

けれども牛は正直だ

牛は為たくなって為た事に後悔をしない

牛の為た事は牛の自信を強くする

それでもやっぱり牛はのろのろと歩く

何処までも歩く

自然を信じ切って

自然に身を任して

がちり、がちりと自然につっ込み食い込んで

遅れても、先になっても

自分の道を自分で行く

雲にものらない

雨をも呼ばない

水の上をも泳がない

堅い大地に蹄をつけて

牛は平凡な大地を行く

やくざな架空の地面にだまされない

ひとをうらやましいとも思わない

牛は自分の孤独をちやんと知っている

牛は喰べたものを又喰べ乍ら

ぢっと淋しさをふんごたえ

さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く

牛はもうと啼いて

その時自然によびかける

自然はやっぱりもうとこたへる

牛はそれにあやされる

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く

牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ

思い立ってもやるまでが大変だ

やりはじめてもきびきびとは行かない

けれども牛は馬鹿に敏感だ

三里さきのけだものの声をききわける

最善最美を直覚する

未来を明らかに予感する

見よ

牛の眼は叡智にかがやく

その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく

形のおもちゃを喜ばない

魂の影に魅せられない

うるおいのあるやさしい牛の眼

まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼

永遠の日常によび生かす牛の眼

牛の眼は聖者の眼だ

牛は自然をその通りにぢっと見る

見つめる

きょろきょろときょろつかない

眼に角も立てない

牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ

外を見ると一緒に内が見え

内を見ると一緒に外が見える

これは牛にとっての努力ぢゃない

牛にとっての当然だ

そしてやっぱり牛はのろのろと歩く

牛は随分強情だ

けれどもむやみとは争わない

争わなければならない時しか争わない

ふだんはすべてをただ聞いている

そして自分の仕事をしている

生命をくだいて力を出す

牛の力は強い

しかし牛の力は潜力だ

弾機ではない

ねぢだ

坂に車を引き上げるねぢの力だ

牛が邪魔物をつっかけてはねとばす時は

きれ離れのいい手際だが

牛の力はねばりっこい

邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも

十本二十本の槍を総身に立てられて

よろけながらもつっかける

つっかける

牛の力はこうも悲壮だ

牛の力はこうも偉大だ

それでもやっぱり牛はのろのろと歩く

何処までも歩く

歩き乍ら草を喰う

大地から生えている草を喰う

そして大きな身体を肥す

利口でやさしい眼と

なつこい舌と

かたい爪と

厳粛な二本の角と

愛情に満ちた啼声と

すばらしい筋肉と

正直な涎を持った大きな牛

牛はのろのろと歩く

牛は大地をふみしめて歩く

牛は平凡な大地を歩く

 

高村光太郎

道程」所収

1914

ひとり林に・・・

だれも 見てゐないのに

咲いてゐる 花と花

だれも きいてゐないのに

啼いてゐる 鳥と鳥

 

通りおくれた雲が 梢の

空たかく ながされて行く

青い青いあそこには 風が

さやさや すぎるのだらう

 

草の葉には 草の葉のかげ

うごかないそれの ふかみには

てんたうむしが ねむってゐる

 

うたふやうな沈黙に ひたり

私の胸は 溢れる泉! かたく

脈打つひびきが時を すすめる

 

立原道造

立原道造全集第一巻」所収

1941

月から見た地球

月から観た地球は、円かな、

紫の光であった、

深いひほひの。

 

わたしは立つてゐた、海の渚に。

地球こそは夜空に

をさなかつた、生れたばかりで。

 

大きく、のぼつてゐた、地球は。

その肩に空気が燃えた。

雲が別れた。

 

潮鳴を、わたしは、草木と

火を噴く山の地動を聴いた。

人の呼吸を。

 

わたしは夢見てゐたのか、

紫のその光を、

わが東に。

 

いや、すでに知つてゐたのだ。地球人が

早くも神を求めてゐたのを、

また創つてゐたのを。

 

北原白秋

海豹と雲」所収

1929

〔丁丁丁丁丁〕

     丁丁丁丁丁

     丁丁丁丁丁

 叩きつけられてゐる 丁

 叩きつけられてゐる 丁

藻でまっくらな 丁丁丁

塩の海  丁丁丁丁丁

  熱  丁丁丁丁丁

  熱 熱   丁丁丁

    (尊々殺々殺

     殺々尊々々

     尊々殺々殺

     殺々尊々尊)

ゲニイめたうとう本音を出した

やってみろ   丁丁丁

きさまなんかにまけるかよ

  何か巨きな鳥の影

  ふう    丁丁丁

海は青じろく明け   丁

もうもうあがる蒸気のなかに

香ばしく息づいて泛ぶ

巨きな花の蕾がある

 

宮沢賢治

疾中」所収

1930

眼にて云う

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう

もう清明が近いので

あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに

きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

焼痕のある藺草のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。

 

宮沢賢治

疾中」所収

1930

子供の好きな少女に

たとへれば夏の作物を見るやうだ

子供の好きな少女は豊かで美しい

あどけなくてどこか生真面目で

さうして

活々とした目と優しい心を持つてゐる

ある夕べ稲光りがして

庭の薄が明るくそよいでゐた

室内も

ときに又昼間のやうに明るくなつた

子供が寝てゐたお臍を出して

その傍を離れず

十五ばかりの娘が一人

恐怖で目をみはつたまま座つてゐた

少女の手はまるで無意識に

(ああそしてそれはきつと

 この世の美しい行為の一つに違ひない)

小さな子供の手を確かり握つてゐた

 

津村信夫

或る遍歴から」所収

1944

子供の話

一、万年筆

 

 子供は、よく笑ふのです。

 

 父が死んだ日に長いこと父の持つてゐた万年筆を貰つた。子供はたいへんうれしく思ひそれで字などを絵や模様などとまぜて書きました。

 しばらくして子供は賑かな葬式のあとで落書の紙を見るとすこしかなしくなりました。前にもお祭りのあとにはいつもかうだつた。あそびに来てゐた親類の女の子と子供の父とがゐないから今度はいつもよりさびしいのです。…………

 子供はなぜだかこんなことを考へながら、その万年筆でもう一ぺん落書きしました。子供はお父さんと万年筆とどつちが欲しかつたのか考へてゐます。落書したのは下手な形の人間の顔でした。誰にも似てゐません。子供は一しよう懸命にそれが親類の子に似てゐると思つてゐました。

 

二、日記

 

  子供は寄せ算をまちがへました。

 それから彼はお弁当を食べました。

 学校の帰りに、路傍で涸れた草花を摘みましたが、すぐに捨てゝしまひました。手には今日返していたゞいた乙の図画があるのです。

 子供はうちへ帰るとお辞儀をしました。

 

 父はもう死んだので、母ばかりが青い顔をして窓の傍で明るい針仕事をしてゐます。子供はそのそばでお三時を食べながら、母とはなしました。母は返事をする度にやさしく笑ひましたからずゐぶん寂しく見え子供は不思議な顔をしました。

 晩御飯を食べると早く寝ました。時計はよく八時になることがあります。

 

三、花の話

 

 子供はお母さんにトランプの兵士の持つてゐるやうな花が欲しいと申しました。赤い花だつたがよく見ると五枚の小さな花びらと黄い花粉までそれには書いてあります。

 そこでお母さんはよくその形や花をおぼえてしまふとさつそく町の花屋へ出かけました。みんな知つてゐるでせう。花屋の店にゐる花たちが、どんなにたのしさうな顔をしてゐるか。ちようど灯のともる時分でしたから。

 お母さんは花屋の人に花を見せて下さいといふと、もうこれきりになりましたといひながら、花屋の人は指さしてくれました。それはほんのすこしの黄や白や水色の花ばかりでした。そしてその人がいふには、ほかの花はもうしほれかゝつてゐますよ。おうちへお持ちになる頃はきつとだめになつてしまひませう。なぜつてあれはひるま買ひにいらした方のよりのこしなのです。

 で、お母さんはがつかりなさると、おうちへ帰りました。子供はそれをきくと、お母さんとおなじ位ずゐぶんがつかりしました。

 子供はすこし病気なのです。それで白い寝床から小さな顔ばかり出して、いろいろなことを考へてゐます。それから暫くすると眠りました。

 お母さんはどうにかして子供をよろこばせてしまはうと考へて紙で造り花をこしらへました。お手本があるのでたいへんうまく行きました。

 

 そのよるおそく子供は眼をさましました。もうお母さんはお休みです。それなのに、子供はちひさな声でお母さんを呼びました。

 それからすこし顔をまげてあたりを見まはしました。すると、どうでせう。頭のところに、ぼんやり大きくあんなに先刻欲しがつた赤い花があるのです。子供はずゐぶんかなしいときのやうな気がしました。なぜつて、ちつとも自分ぢやわからなかつたけれど。するともうその花はいらなくなつてゐました。子供はもう一ぺん眼をとぢて眠りました。

 

 かはいさうに、その次の朝、お母さんはその花を上げようとすると、子供が、いやいやをしたのです。もうトランプの花なんかいらないと申しました。

 お母さんは指でその造り花をくるくるまはしながら見てゐます。

 ――いいですか。朝なんですよ。

 ね、みんな。窓のところで風がこつそり見てゐます。子供は花の方を覗いてきまりわるくなつてしまひました。

 

四、ビラ

 

 子供は、いつもビラが降つてゐたらと思つて空を眺めるのです。ビラがあるときれいでした。空は明るく見えました。

 子供は、父がありません。母は、よい人だけれども、お金を多く持つてゐません。だから、ほんとうには子供をそんなによろこばせることは出来なかつたのです。子供はずつととほくまである家を欲しがつたのですが、家は子供たちが十人もはいるといつぱいになつて遊ぶことさへ出来なかつた。ビイ玉を埋めたいときにも砂のある庭はありません。庭のやうに見えるけれど、たゞ草花や石のあるものです。子供はよく日なたで、ピ・オ・ピに写真をやきましたが下手にくろくなり何もわかりませんでした。

 子供は、露路がいちばん空が高いと思つてゐます。

 或る日、飛行機が飛んで来ましたが、ビラをまきませんでした。子供はおこつた。ビラがあると、子供はそれで飛行機をつくるのです。

 子供はこの間かぜをひいたけれど、そのとき寝床のなかで咳をしました。自分では、それをビラが欲しくて出した声だと思つたやうでした。

 

 しばらくすると、子供は死んでゐました。

 母は、よい人だつたから、ながいこと泣いてゐたが、知りません。子供は今は、天にゐて、空をビラさがして歩いてゐるのです。子供は、生きてゐたときと同じ顔なので、誰にもよくわかります。子供は、まだビラを一枚だつて見つけないのでおこつてゐた。

 ビラには赤や青や草色のがあります。白や黄のがあります。黒のはありません。黒いビラは空がきたなくなります。

 

立原道造

1939

 

住んでる人しか知らない道

多分、住んでる人しか知らないだろう、

その道、

詩を書こうと思って、その道を選んだ。

 

その辺りに住んでいて、そこを歩いている人には、

説明するまでもないが、

知らない人には、説明の仕様もない、

ありふれた道。

東大阪の

近大から上小阪、中小阪、下小阪へ通じている

家々の間を緩やかに蛇行した細い道。

多分、昔からある道。

 

夏も終わる夕方、近大前で濱田君と別れた後、自転車を押す池田君と

わたしは話をしながら、並んで歩いた。

二人が並んで歩くと、

擦れ違う人はいくらか身を避ける格好になる。

こちらも、そうする。

 

おばあさんが

家の前に吊り下げ並べた幾つもの鉢植えの花に如雨露で水をやっていた。

少年が

戸口で犬の頭をごしごし撫で、犬は尾を振り切るほどに振っていた。

おばあさんの唐草模様のワンピースが、いいなあ。

少年のやさしく力を入れた手元が、いいなあ。

犬の尾っぽ。

そんな感じ。

 

それにしても、地べたにしゃがんだ少女は、

道ばたの石の間の雑草の茂みに、手を入れて何を探していたのだろう。

池田君は、古いパソコンを使っていて、それに合う

「5インチのフロッピーは、もう、売ってませんよ」

といい、わたしの頭には「発語」という単語が引っかかっていた。

先ほど、授業で、

「詩の本質は、発語の共有だ」といった。

何に接して、言葉が生まれてくるか。

「問題は、その発語の主体にある」と。

心を向けているもの、心が受け止めるイメージ。

それで、

「発語は決まる」が、

その「発語」を読者と共有できるかできないか。

「もう、売ってませんよ」と、池田君は言うけど。

 

詩集は売ってない。

生活者は現代詩を読まない。

現代詩は大学で講義されて、

見たこともないその言葉の姿に学生たちは驚く。

で、

詩を書く人は結構な数だが、余り読まない。

多くは詩に無知だから。

詩に無知だからと言って、どうってこともない。

現代詩は日常を地割れさせる。

大衆から遠ざけられる。

その言葉が言葉の在処の深みにあるから、

深く潜れる者にしか知られない。

 

この「わたし」が「発語」を求めて接しているところは、

発生してくる言葉が秘めた深み。

その辺りに住んでいる人しか歩かない道を、

住んでいるのではないわたしは歩いている。

おばあさんの夕日に透けたワンピース。

住んでいる人には見えないワンピース。

花が枯れてはいけないと、おばあさん、

如雨露から迸り光る水。

犬の頭をごしごし擦る少年の手元。

犬は嬉しがり、少年は更に撫でる。

彼だって、明日になれば、そのしたことを忘れてしまうだろう。

小さなことだが、

わたしは、その彼らの姿を大切に記憶する。

当人も他人も忘れてしまう姿を留めたいとは思いながら、

でも、わたしもいつかは忘れてしまう。

小さなことだ。

でも、生きてる。

そこで、言葉。

言葉になり変わる。

わたしは言葉になり変わる。

万感を込めて、言葉になり変わる。

道ばたの草のような言葉になり変わる。

いつか少女が、そこに素手を差し入れて探し出してくれる。

 

書かれた言葉が読まれないのは辛い。

言葉に、

求めに応じる力がないからか。

言葉に、

求めて行く心がないからか。

 

辛いからと、早まった結論をしてはいけない。

人は、心に生きている人を失えば悲しむ。

人は存在の消失を悲しむ。

悲しむ心は無くならない。

しかし、先ずは、何事でも、心の中に存在しなければ、

失われたことにも気がつかない。

気がつかなければ、悲しむこともない。

ここだ。

存在への対し方、それが問題。

如雨露で水を掛けるおばあさんの姿は、

通りすがりの人には、見えない。

犬の頭を撫でる少年の手元は、目を引かない。

不透明性が覆っている。

都市生活者の意識の不透明性。

人の死よりも、葬式が幅を利かす不透明性。

住んでいる人しか知らない道を、

顔を見知っていなければ、互いの姿を見ないで行き交う。

 

不透明性の中で存在を明示する語法を工夫しなければ。

一つは、不快で過激な曖昧を実現する語法。

また一つは、不透明を透徹する語法。

語法というのは、物事の関係を改める言葉遣いのことです。

でも、これはかなり厄介。

先ずは、人との関係を改めなければならないから。

いろいろな先達が、そんな風にやってきた。

「そんな風」の風を、この道で感じた。

住んでいる人しか知らない道を、

そこに住んでいないわたしは、

若い池田君のコンピュータの話に耳傾けながら、

歩いた。

確かに、歩いた。

右足をちょっとびっこ引いて。

 

道の終わりの駅近くの不定に広がった区画に来て、

京間六畳一間のアパートに帰るという池田君に、

手を振って分かれた。

池田君は、角からいきなり出てきた自動車を身軽に避けて、

腰を上げ、ペダルを踏み下して走り去った。

 

鈴木志郎康

詩の電子図書室」所収

1998