吾胸の底のここには

吾胸の底のここには

言ひがたき秘密住めり

身をあげて活ける牲とは

君ならで誰かしらまし

 

もしやわれ鳥にありせば

君の住む窓に飛びかひ

羽を振りて昼は終日

深き音に鳴かましものを

 

もしやわれ梭にありせば

君が手の白きにひかれ

春の日の長き思を

その糸に織らましものを

 

もしやわれ草にありせば

野辺に萌え君に踏まれて

かつ靡きかつは微笑み

その足に触れましものを

 

わがなげき衾に溢れ

わがうれひ枕を浸す

朝鳥に目さめぬるより

はや床は濡れてただよふ

 

口唇に言葉ありとも

このこころ何か写さん

ただ熱き胸より胸の

琴にこそ伝ふべきなれ

 

島崎藤村

落梅集」所収

1901

人類の泉

世界がわかわかしい緑になつて

青い雨がまた降つて来ます

この雨の音が

むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて

いつも私を堪らなくおびやかすのです

そして私のいきり立つ魂は

私を乗り超え私を脱がれて

づんづんと私を作つてゆくのです

いま死んで いま生れるのです

二時が三時になり

青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに

今日もこの魂の加速度を

自分ながら胸一ぱいに感じてゐました

そして極度の静寂をたもつて

ぢつと坐つてゐました

自然と涙が流れ

抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました

あなたは本当に私の半身です

あなたが一番たしかに私の信を握り

あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです

私にはあなたがある

あなたがある

私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです

おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます

私の生を根から見てくれるのは

私を全部に解してくれるのは

ただあなたです

私は自分のゆく道の開路者です

私の正しさは草木の正しさです

ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです

もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます

あなたは海水の流動する力をもつてゐます

あなたが私にある事は

微笑が私にある事です

あなたによつて私の生は複雑になり 豊富になります

そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです

私は今生きてゐる社会で

もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました

もう共に手を取る友達はありません

ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです

私はこの孤独を悲しまなくなりました

此これは自然であり 又必然であるのですから

そしてこの孤独に満足さへしようとするのです

けれども

私にあなたが無いとしたら──

ああ それは想像も出来ません

想像するのも愚かです

私にはあなたがある

あなたがある

そしてあなたの内には大きな愛の世界があります

私は人から離れて孤独になりながら

あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します

ヒユウマニテイの中に活躍します

すべてから脱却して

ただあなたに向ふのです

深いとほい人類の泉に肌をひたすのです

あなたは私の為めに生れたのだ

私にはあなたがある

あなたがある あなたがある

 

高村光太郎

智恵子抄」所収

1913

春と棘

誰もが指の先の棘を持て余しているのです

僕は少しのためらいもなく僕の内部で嘘の日蝕を許してみせています

影は何の約束もせずにとても真っ黒い影を追っています

春の石ころが春の石ころに蹴られている時です 初蝶になじられています

この時です 僕は必死に僕の内臓を歩き続けています この時です

ああ鳥の影が鳥を追って笑い続けています

その先の沼の中に見つけたことのない海があります

僕は指の中の棘を気にしています 静かに息をこらして

じっと見つめているうちに刃はずっと鋭くなります

昨日はくるみの木の梢の先が刺さっていたからです

一昨日は不穏な曇り空が刺さってきたからです

その前の晩は大きな猫の夢が指の内部で破裂したからです

 

ところで僕は坂道の途上にいます 上るほどにどんどんと痛みます

あるいは痛まないのです

指の先で思想を磨く棘を どうしようもないままに

ゆるやかな坂を行けば 折れ曲がった枝が落ちています

拾い上げると犬の声が耳を汚しています 鮮やかな草原で枯れてゆく

さるすべりの木と影と風とを思い出しているのは僕の脾臓であります

 

僕の指の中の棘はしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で

すると僕の指の中がしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で

僕はここに居るが僕はここには居ないのです

僕はゆるがない激痛の指先であるが 僕は少しも痛まないのです

僕は怖ろしいほどの現在ですが 僕は静謐な過去の比喩なのであります

 

ここまで生きてきた時間の内部で交わしてきた

絶対に破ることのできない約束を直立させる黄色い鉄塔が

僕の指の中にあります

僕の今日のなかで宇宙は尖り続けます

見知らぬ意味が さらに先へと国道を折り曲げていくときに

光り輝く黄色い小指が僕の人さし指の中で真っすぐに立っているのです

 

魚群は 群れを失くしながら静かな青空の理由を知らないのです

雲雀が無風の明日の上で大きくけんけん跳びをしているから

指紋の中で渦巻いている縄文時代の記憶を呼び覚ますと

0点の答案の上の黄色いボールペンが僕の指の中にあるのです

春の小海老の大群が桃色に染め上がっていくうちに

幼い日の空っぽのゲタ箱の中で青い時間が

澄み切ってゆくのを従兄弟と十姉妹はどうやって知ったのでしょうか

 

いくら踏んでも御喋りしているのは足の裏と何億もの影法師たち

眼帯の裏にあるのは霧の中の津波です 輝かしい孔雀に頬寄せて

内なる若葉の季節の反感にむせび泣けば たどりつくのは初夏の破約です

無人のブランコが世界を坐らせて背中を押しています

誰も訪れない集会所の鉄の扉の傷をどうしようもない

正午の庭先の黄色い柿の木は僕の指の中にあるのですから

黄色い電信柱なども みんな僕の指の中にあるのですから

 

ところで僕は 棘はどうするのでありますか

どうしたって 抜けないのです

指の中の激しい無痛あるいは無感覚の痛ましさ

僕はかけがえのない何かを信じています

ならば棘を抜こうとするのは止したほうがいいのです

 

ああ何という清潔な春の坂道なのでしょう

坂を上っていくほどに尖る指の中の棘があるのです

新しい時の前触れであるのです

僕はひどく指の中の棘を気にしているからであります

坂の下へと伸びていく僕の影はこのようにも

僕の魂の奥で新しい棘になっていきます いくのです

これを抜いて下さいよ これを抜かないで下さいよ

 

僕は傷ましい指先を濡らして

坂道で息を止めて初めての蝶を追っている

春の残酷な悪魔であります

雲の隙間から洩れる陽光をひどく呪っています

その小さな羽に山河の季節の輝きを見つけてしまい

驚いています ほら

僕の脳みそに鋭い風が突き刺さるのです

これが僕の愛のただなかにある

春の雷の兆しそのものなのかもしれないのです

 

和合亮一

廃炉詩篇」所収

2010

私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面を速くは走れない。

 

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように

たくさんな唄は知らないよ。

 

鈴と、小鳥と、それから私。

みんなちがって、みんないい。

 

金子みすゞ

金子みすゞ童謡全集」所収

1930

こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと

「遊ぼう」っていう。

 

「ばか」っていうと

「ばか」っていう。

 

「もう遊ばない」っていうと

「遊ばない」っていう。

 

そうして、あとで

さみしくなって、

 

「ごめんね」っていうと

「ごめんね」っていう。

 

こだまでしょうか、

いいえ、だれでも。

 

金子みすゞ

金子みすゞ童謡全集」所収

1930

知るや君

こゝろもあらぬ秋鳥の

声にもれくる一ふしを

        知るや君

 

深くも澄める朝潮の

底にかくるゝ真珠を

        知るや君

 

あやめもしらぬやみの夜に

静にうごく星くづを

        知るや君

 

まだ弾きも見ぬをとめごの

胸にひそめる琴の音を

        知るや君

 

島崎藤村

若菜集」所収

1897

荒城の月

春高楼の花の宴

巡る盃かげさして

千代の松が枝わけ出でし

昔の光いまいずこ

 

秋陣営の霜の色

鳴きゆく雁の数見せて

植うる剣に照りそいし

昔の光いまいずこ

 

いま荒城の夜半の月

替らぬ光たがためぞ

垣に残るはただ葛

松に歌うはただ嵐

 

天上影は替らねど

栄枯は移る世の姿

写さんとてか今もなお

嗚呼荒城の夜半の月

 

土井晩翠

1901

無題

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん

遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

 

梁塵秘抄」所収

巻第二 359

1180

 

君死にたまふことなかれ

─ 旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて ─

 

あゝをとうとよ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ、

末に生れし君なれば

親のなさけはまさりしも、

親は刃をにぎらせて

人を殺せとをしへしや、

人を殺して死ねよとて

二十四までをそだてしや。

 

堺の街のあきびとの

舊家をほこるあるじにて

親の名を繼ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ、

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。

 

君死にたまふことなかれ、

すめらみことは、戰ひに

おほみづからは出でまさね、

かたみに人の血を流し、

獸の道に死ねよとは、

死ぬるを人のほまれとは、

大みこゝろの深ければ

もとよりいかで思されむ。

 

あゝをとうとよ、戰ひに

君死にたまふことなかれ、

すぎにし秋を父ぎみに

おくれたまへる母ぎみは、

なげきの中に、いたましく

わが子を召され、家を守り、

安しと聞ける大御代も

母のしら髮はまさりぬる。

 

暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を、

君わするるや、思へるや、

十月も添はでわかれたる

少女ごころを思ひみよ、

この世ひとりの君ならで

あゝまた誰をたのむべき、

君死にたまふことなかれ。

 

与謝野晶子

晶子詩篇全集」所収

1904

紙の上

戦争が起きあがると

飛び立つ鳥のように

日の丸の翅をおしひろげそこからみんな飛び立つた

 

一匹の詩人が紙の上にゐて

群れ飛ぶ日の丸を見あげては

だだ

だだ と叫んでゐる

発育不全の短い足 へこんだ腹 持ちあがらないでっかい頭

さえづる兵器の群れをながめては

だだ

だだ と叫んでゐる

だだ

だだ と叫んでゐるが

いつになつたら「戦争」が言えるのか

不便な肉体

どもる思想

まるで砂漠にゐるようだ

インクに渇いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる

その一匹の大きな舌足らず

だだ

だだ と叫んでは

飛び立つ兵器をうちながめ

群れ飛ぶ日の丸を見あげては

だだ

だだ と叫んでゐる

 

山之口貘

山之口貘詩集」所収

1940