Category archives: 1960 ─ 1969

旅情

ふと覚めた枕もとに
秋が来ていた。

遠くから来た、という
去年からか、ときく
もつと前だ、と答える。

おととしか、ときく
いやもっと遠い、という。

では去年私のところにきた秋は何なのか
ときく。
あの秋は別の秋だ、
去年の秋はもうずっと先の方へ行つている
という。

先の方というと未来か、ときく、
いや違う、
未来とはこれからくるものを指すのだろう?
ときかれる。
返事にこまる。

では過去の方へ行ったのか、ときく。
過去へは戻れない、
そのことはお前と同じだ、という。


がきていた。
遠くからきた、という。
遠くへ行こう、という。

石垣りん
表札など」所収
1968

秋夜

とんぼをつかまえ、蝉をとって帰るたび
母は眉をひそめて言った
「可哀想だから放しておやり」母はわたしがとんぼや蝉をとるのを嫌がった

若くて死ぬ人はこころが弱いか
こころが弱いからこの世をながく
生きぬくことができなかったか
二十七歳で母は死んだ

母が死んでからわたしはとんぼや蝉をとらなくなった
小さな虫たちの生命を大切にするようになった
幼い頭に母の言葉が沁みこんでいたのだろう
そして内気な寂しい子にもなった

秋の夜 ひとり机に向っていると
燈火を慕ってさまざまな虫がはいってくる
かるい羽音をたてて燈火をめぐり机に落ちる
わたしは捕えてはひとつひとつ窓から放してやる

大木実
「月夜の町」所収
1966

男について

男は知っている
しゃっきりのびた女の
二本の脚の間で
一つの花が
はる
なつ
あき
ふゆ
それぞれの咲きようをするのを
男は透視者のように
それをズバリと云う
女の脳天まで赤らむような
つよい声で
 
男はねがっている
好きな女が早く死んでくれろ と
女が自分のものだと
なっとくしたいために
空の美しい冬の日に
うしろからやってきて
こう云う
早く死ねよ
棺をかついでやるからな
 
男は急いでいる
青いあんずは赤くしよう
バラの蕾はおしひらこう
自分の手がふれると
女が熟しておちてくる と
神エホバのように信じて
男の掌は
いつも脂でしめっている

滝口雅子
「鋼鉄の足」所収
1960

ひき蛙

お母さん
もし私が醜怪なひき蛙だったなら
あなたならどうします

おお 恋人ならば
たちまち目をまわしてしまう
燃えるように見つめてくれた目を
恐怖とにくしみにかえて
千里も遠くに去ってしまう

もしもまた妻ならば
子を残して家に帰ってしまう
なぜかというと
その子も私と同じひき蛙なのだから

でもお母さん
あなたならどうします

私がひき蛙だったなら
ひき蛙よりも
もっとみにくいいきものだったなら
きらわれるまむしだったなら
つられたあんこうのぶざまだったなら
もしもあなたに
それが私であることを告げたなら

村上昭夫
動物哀歌」所収
1968

夕暮れ

あんまりにも 夕暮れが美しかったので
荷物をおいて
追いかけることにしました。

あんまりにも 夕暮れがささやくもんだから
鼓膜をおいて
追いかけることにしました。
〈夕暮れはそっと、ささやいてくれました〉

あんまりにも 夕暮れがささやくもんだから
瞳をおいて
追いかけることにしました。
〈夕暮れはそっと、ささやいてくれました〉
朱色と黒の世界
を。

ボクは停留所から停留所へと
夕暮れを追いつづけました。

風はそっと肩をゆすり
起こしてくれました。
停留所のそばに
アリと一緒に寝ている
ボクを。

高田渡
個人的理由」所収
1969

棒をのんだ話

うえからまっすぐ
おしこまれて
とんとん背なかを
たたかれたあとで
行ってしまえと
いうことだろうが
それでおしまいだと
おもうものか
なべかまをくつがえしたような
めったにないさびしさのなかで
こうしておれは
つっ立ったままだ
おしこんだ棒が
はみだしたうえを
とっくりのような雲がながれ
武者ぶるいのように
巨きな風が通りすぎる
棒をのんだやつと
のませたやつ
なっとくづくのあいまいさのなかで
そこだけ なぐりとばしたように
はっきりしている
はっきりしているから
こうしてつっ立って
いるのだ

石原吉郎
「石原吉郎詩集」所収
1969

美しき夕暮れ

山は美しい夕焼
女はナプキンをたたんでゐる
椅子にかけた その女は膝を組み重ねる
すると腿のあたりが はっきりして燃え上るやうだ

食卓 頑丈で磨きのよくかかった栗の木の食卓に
白い皿 ぎんのスプーン ナイフ フォーク
未だあかるい厨房では 姫鱒をボイルしてゐる
夕暮の空気に 女の髪の毛がシトロンのやうに匂い 快い興奮と
何かしら身うちに
熱るものをわきたてる

山は美しい夕暮
女はナプキンに 美しい夕焼をたたんでゐる

田中冬二
「晩春の日に」所収
1961

若葉よ来年は海へゆこう

絵本をひらくと、海がひらける。若葉にはまだ、海がわからない。

若葉よ。来年になったら海へゆこう。海はおもちゃでいっぱいだ。

うつくしくてこわれやすい、ガラスでできたその海は
きらきらとして、揺られながら、風琴のようにうたっている。

海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。

若葉よ。来年になったら海へゆこう。そして、じいちゃんもいっしょに貝になろう。

金子光晴
詩集 若葉のうた」所収
1967

小さいマリの歌

1 微笑

小さいマリよ
おまえは仔兎のように
ぼくの椅子の下に巣をつくったり
栗鼠のようにすばしこく
ぼくの頭の木のうえに駈けのぼったりする
あどけないおまえの声は いつもぼくに
ぼくの持っていない愛情を思い出させる
膝にのって話をせがむマリよ
ぼくが知っているのは おまえが生れる前のことだ
おまえが生れてからのことは
なんでもおまえの方がよく知っている
はてしない空 麦畑 街々
木々 家々 大地
それがどんなふうに
わけへだてのないぼくたちのあいだに
見えない国境をつくっているか
みんな知っているとおりだ
それから大人たちの仕事
きままなぼくの生活
話していいこと いけないこと
太陽に背をむけたそれらのものが
どのようにぼくたちの大地に暗い影を落すのかも
みんな知っているとおりなんだ
おまえの微笑は
雪にとざされたぼくの窓や
椅子のうえで寒さにふるえているぼくの手足を
あたたかい南国の陽ざしのように融かしてくれるから
小さいマリよ
ぼくはただ黙って
いつまでもおまえに向きあっていたいのだよ

2 夢

おまえは小さな手で
ぼくのものでない夢を
たえずぼくの心のなかに組みたてる
これはお山 これは川
それから指で大きな輪をえがいて
ここには海があるの
これはお家 これはお庭 これは樹
ここには犬がつないであるの
そうしておまえは自分のまわりに
ひとつずつ自然を呼びよせて
ぼくと一緒に住もうというのだ
あどけないマリの夢よ
おまえの世界には
沈黙に聴きいる石もなければ
歌わぬ梢
物言わぬ空というものがない
消えさる喜び 永くとどまる悲しみというものがない
これはお茶碗 これはお皿
大きいフライパンをあやつる小さいマリは
ぼくと一緒に暮そうという

3 歌

小さいマリよ
どんなに悲しいことがあっても
ぼくたちの物語を
はじめからやり直し
なんべんもなんべんもやり直して
気むずかしい人たちに聞かせてあげよう
小さいマリよ
さあキスしよう
おまえを高く抱きあげて
どんな恋人たちよりも甘いキスをしよう
まあお髭がいたいわと
おまえが言い
そんならもっと痛くしてやろうと
ぼくが言って
ふたりの運命を
始めからやり直せばいいのだよ

さあゆこう
小さいマリよ
おまえと歩むこの道は
とおくまで草木や花のやさしい言葉で
ぼくたちに語りかけてくるよ
どんなに暗い日がやってきても
太陽の涙から生れてきたぼくたちの
どこまでもつづく愛の歌で
この道を歩いてゆこう
小さいマリよ
さあ歌ってゆこう
よく舌のまわらぬおまえの節廻しにあわせて
大きな声でうたうぼくたちの歌に
みんなじっと耳をすましているのだから
ずっと空に近い野原の
高い梢で一緒に歌っている人たちが
心から喜んでくれるから
さあ歌ってゆこう
小さいマリよ

鮎川信夫
続・鮎川信夫詩集」所収
1965

田舎のモーツァルト

中学の音楽室でピアノが鳴っている。
生徒たちは、男も女も
両手を膝に、目をすえて、
きらめくような、流れるような、
音の造形に聴き入っている。
そとは秋晴れの安曇平、
青い常念と黄ばんだアカシア。
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
新任の若い女の先生が孜々として
モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。

尾崎喜八
「田舎のモーツァルト」所収
1966