Category archives: Chronology

言葉なき歌

あれはとおいい処にあるのだけれど

おれは此処で待っていなくてはならない

此処は空気もかすかで蒼く

葱の根のように仄かに淡い

 

決して急いではならない

此処で十分待っていなければならない

処女の眼のように遥かを見遣ってはならない

たしかに此処で待っていればよい

 

それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた

号笛の音のように太くて繊弱だった

けれどもその方へ駆け出してはならない

たしかに此処で待っていなければならない

 

そうすればそのうち喘ぎも平静に復し

たしかにあすこまでゆけるに違いない

しかしあれは煙突の煙のように

とおくとおく いつまでも茜の空にたなびいていた

 

中原中也

在りし日の歌」所収

1936

私の自叙傅

俺は小百姓の家に

たつた一人の子に生れた。

俺はおしやべりの人間が嫌ひだつた、

俺はおし黙つた蜥蜴が好きだつた、

俺は蜥蜴と遊び耽つた後で、

極つたやうに蜥蜴を両斷した。

彼の女の頭の方は崩れた石垣の上から俺を睨んだ、

彼の女の尾の方は落ちた椿の蕊の裡で跳ね廻つた、

彼の女の綠靑色の肌が花粉で黄色くよごれた、

たとひ、それが一瞬時の事實としても、

一つの生命が二つにも三つにも分裂することに

俺は限りなく美味な驚異を飽食した。

やがて大きな手が俺を捕へて

確乎と俺に目隠しをした。

 

それから長い長い路が始まつた、

道はざくざくして歩行きにくかつた、

道は一ぱいに象形文字が鋪きつめてあつた。

俺は厚い土壁の牢獄に俺を見出した、

俺はやうやうの事で窓を目付けた、

窓にはチヤイコフスキイが立つて居た、

チヤイコフスキイはスクリアビンを紹介して去つた、

俺の血に棲む小反逆者が俺の道徳に肉道した、

スクリアビンの肉體は死んださうだが、

俺の窓へは毎日來る、

今朝も俺の手を握りながら、

「どうだ、俺の手は………」と言つた位だ。

 

深尾贇之丞

「天の鍵」所収

1920

青い林檎

赤い林檎に

青い林檎

なぜにひとつが

青いのか

 

あんまり泣いて

死んだゆえ

それでひとつが

青いのだ

 

瀨田彌太郎

抒情小曲集『哀吟余情』所収

1925

木犀の匂ひ

木犀が咲き出すと

水晶製の空気がどこからともなくながれてきて

すべるやうに音なくながれてきて

時によるとほかのものがみんな消えてしまつて

ただ木犀の匂ひだけが

地球のうへをながれてゐることがある 

 

高橋元吉

高橋元吉詩集」所収

1962

秘やかな楽しみ

一顆の檸檬を買い来て、

そを玩ぶ男あり、

電車の中にはマントの上に、

道行く時は手拭の間に、

そを見 そを嗅げば、

嬉しさ心に充つ、

悲しくも友に離りて

ひとり 唯独り 我が立つは丸善の洋書棚の前、

セザンヌはなく、レンブラントはもち去られ、

マチス 心をよろこばさず、

独り 唯ひとり、心に浮ぶ楽しみ、

秘やかにレモンを探り、

色のよき 本を積み重ね、

その上にレモンをのせて見る、

ひとり唯ひとり数歩へだたり

それを眺む、美しきかな、

丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、

ほほえまいて またそれをとる、冷さは熱ある手に快く

その匂いはやめる胸にしみ入る、

奇しきことぞ 丸善の棚に澄むはレモン

企らみてその前を去り

ほほえみて それを見ず、

 

梶井基次郎

「梶井基次郎全集」所収

1922

秋の日の下

 秋の日の下、物思いの午後、芝生の上。

取り出せるは、皺になれる敷島の袋、

残れる一本を、くわえて、火を点ず、

残れる火を、さて敷島の袋にうつす、

秋の日の下、物思いのひるさがり、芝生の上、

めらめらと、袋は燃ゆらし 灰となりゆく、

あわれ、我が肺もこの袋の如、

日に夜に蝕まれゆくか、

秋の日の下、くゆらす煙草のいとからし。

 

梶井基次郎

「梶井基次郎全集」所収

1922

 恐怖に澄んだ、その眼をぱつちりと見ひらいたまま、もう鹿は死んでゐた。無口な、理窟ぽい青年のやうな顔をして、木挽小屋の軒で、夕暮の糠雨に霑れてゐた。(その鹿を犬が噛み殺したのだ。)藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、大腿骨のあたりの傷が、椿の花よりも紅い。ステッキのやうな脚をのばして、尻のあたりのぽつと白い毛が水を含むで、はぢらつてゐた。

 どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。

 三椏の花が咲き、小屋の水車が大きく廻つてゐた。

 

三好達治

測量船」所収

1930

都会のデッサン

 Ⅰ

 

日曜日―僕らは幸福をポケットに入れてあるく 時々取出したり又ひっこめたりしながら 磨かれた靴 軽い帽子 僕らは独身もののサラリイマンです さうして都会よ 君はいつでも新刊書だ オレンヂエエドの風のあとに 見たまへあの舗道の上 またもプラタヌの並木の影はいつせいに美しい詩を印刷する 爽やかな拍手とともに

 

 Ⅱ

 

百貨店―エレベエタアよ 気が向いたら地獄まで墜ちてくれたまへ 天国まで昇ってくれたまへ―ここは屋上庭園だ 遠い山脈 そして青空とアドバルウン ああ今僕らは感じる あの金網の動物たちよりももつと悲しく 都会よ 君の巨きな掌に囚へられてゐる僕ら自身を

 

木下夕爾

「田舎の食卓」所収

1939

夕方私は途方に暮れた

 夕方、私は途方に暮れた。

海寺の階段で、私はこっそり檸檬を懐中にした。

 

──海は疲れやすいのね。

 

女が雪駄をはいて私に寄添った。

帆が私に、私の心に還ってくる、

記憶に間違いがなければ、今日は大安吉日。

海が暮れてしまったら、私に星明りだけが残るだろう。

 

それだのに、

夕方、私は全く途方に暮れてしまった。

 

津村信夫

「愛する神の歌」所収

1935

眞赤な風車

リトマス試驗紙は轉寢をし、タイル張りの螺旋階段は締切つた。

けれども三面鏡は間斷なく機關銃を亂射し、太陽から眼帶を略

奪した。スヰトピイの花瓶をたたき壊した彼は、決然とドアを

蹴つた。

 

克山滋

「白い手袋 克山滋遺稿集」所収

1948