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伝道

若い娘が
我が家の鉄の扉を叩き
神についての福音の書を読めという

勇気をふるい、私は素っ気なく答える
買っても読まないでしょうし
折角ですが──

微笑んだ娘のまっすぐな眼差しに会って
私のほうが眼を伏せる
申訳ないが──そう言って私は扉を閉じる

神を、私も知らぬわけではない
神をなつかしんでいるのは
娘さん、君より私のほうだ

けれど、どうして君は
こんな汚辱の世で
美しすぎる神を人に引合わせようというのだ

拒まれながら次々に戸を叩いてゆく
剛直な娘に
なぜか私は、腹立たしさを覚える

私なら
神を信じても
人に、神を信ぜよとは言わない

娘さん
どうして君は、微笑んで
世の中を、人を、まっすぐ見つめるのだ

ここは重い鉄の扉ばかりの団地だ
君は、どの扉へも
神をしのびこませることができなかったろう

君は、眼の前で
次々に閉じられる重い鉄の扉を
黙って見ていなければならなかったろう

娘さん、私は神が必要なのに
私は言った
買っても読まないでしょうと

吉野弘
感傷旅行」所収
1971

生れた子に

もうだめなんだ
お前は立ってしまったんだ
脳味噌の重みを
ずーんと受けて
立ってしまったんだ
もうだめなんだ
ごらん
お前は影をもってしまった
お前の手は
小さな疑いの石を
いつのまにか
固くにぎってしまった
そら歩いてごらん
あとはそいつを
太陽の方角へ
投げるだけだ
石は三〇年もすれば
おちてきて
お前の額を撃つだろう
そのときお前は
もういちど立つだろう
父がそうしたように
心の力で

山本太郎
「糾問者の惑いの唄」所収
1967

解決

古ぼけて煤けた駅であった その窓硝子も煤けていた よく駅夫が熱心に拭っていたが すぐもとにもどっていた ある夜のこと その一枚が 戸外の闇までつやつや見える位美しくすき透っているのを見た 近づくと硝子は割れてはづれていたのだった 煤けた彼が 何年かねがい 努め 悩んだものが そのようにして解決されていた 戸外の闇から凍った冬の夜風が吹きこんでいた

杉山平一
ぜぴゅろす」所収
1977

征旅

蛾は
あのやうに狂ほしく
とびこんでゆくではないか
みづからを灼く 火むらのただなかに

わたしは
みづからを灼く たたかひの
火むらのただなかへ とびこんでゆく
あゝ 一匹の蛾だ

高祖保
独楽」所収
1945

恐怖

どしり、どしりと地ひびきして、
何処からか何か来る。

画室の内は昼間よりも明るく蒼白い光りが漲つて、
はだかの女は死んだやうにねてゐる。
ギアランス。カドミウム。ナアブル。コバルト。ウウトルメエル。
そして、にちやにちやと──ああ気味のわるい──真赤な血のいろ。
画筆をもてば、ぷすりと何かがつきぬきたく、しんしんと歯が病める。
たぎり立つ湯は、湯の玉を暖炉の上に弾かせ、
時計はけろりと魔法使ひの顔をして、
高い天井の隅に歯ぎしりの音。
たしかに己は女をころした。
流れてゐるのはたしかに血だ。
どろり、たらたらと、あれ、流れる、落ちる。
血だ。血だ。
ああ、さうよなあ。
いつそ、手も足も乳ぶさも腸もひきちぎつて、かきむしつて
布の上にたたきつけようか。
眼がくらくらして来た。
咽喉がえがらつぽい。
血だ。血だ。
はだかの女はまだねてゐる。
戸の外は闇だ。風がふく。
己の手に何かついてゐる。
しかし、己は今画をかいてゐたに違ひない。悪い事をした覚えはない。毛頭ない。
が、何だらう。

どしり、どしりと地ひびきして。
何処からか何か来る。何か来る・・・・

高村光太郎
高村光太郎詩集」所収
1911

果実

ひかりは手加減もなくためらいもなく
いたるところからさんさんとはいってきた
かたくとざしている内側の未熟を
ものなれたあたたかいゆびさきが
ゆっくりと愛撫すると
われにもあらずうっとりとやわらいでいくのだった
とじこめることでかたくまもってきた非熟の生硬さが
いなやもなくひかりにおかされてみちたりていくと
果実はもののみごとに完熟して
もうなんのこころおきもなく
みずからのおいしさだけに身ゆだねるのだった

征矢泰子
花のかたち 人のかたち」所収
1989

不具

たったひとつのことばを言へないために
こんなにも もどかしいのだ
ゆるさないのは わたしか 誰か
たったいっぴきの 目に見えないものの不在が
不当にも 愛を染め分けて
わたしの贈り物はいつも貧しい けれど

ひとりを ふるへながら壊しもしないで
失はれたものたちを どのやうに愛せるのか

わたしは坂道をかけ下りて
ビニールに梱包された死体を揺さぶる
老女よ 母でない母よ
塩鮭のやうに硬直し雪に埋まって
あなただけが知ってゐた
沈黙 こそがゆるしだったのに
そして嬰児よ
つひに孕まれなかったわたしたちのことばよ
塩鮭のやうに硬直し雪に埋まって──
たった一滴の涙を流せないために
夢のなかでさへ 唇をかむのだ

吉原幸子
「夢 あるひは・・・」所収
1976

どういうわけか、兎

どういうわけか その家には兎が飛びこんでくるのです どういうわけか 寝不足の赤い眼をして どういうわけか 入ってもいい? などと聞くのでした どういうわけか そう言われると つい家の中に入れてしまうのですが でもどういうわけか 兎は飼ってはいけないことになっているのです 国家が法律で禁止しているというわけではないのですが どういうわけか タブーなのです そこで彼はいや彼女はいやわたしなのかな その家に住んでいる人のことなのですが どういうわけか その人は兎の首をつかんで 戸棚に押しこめ錠をおろしてしまいます 決まりを守らないと 隣組のこわいおじさんがどなりこんでくるということもないし どういうわけか 警察に逮捕されたという話も聞きません その人は決まりさえなければ どういうわけか 兎と一緒に暮らしてもいいと思っているし かわいらしい兎なら どういうわけか 一緒に抱きあって寝てもいいとさえ思っているのですよ どういうわけか じっさい内緒の話なのですが あの素性の知れない十七歳の少女のうちにはどういうわけか 男をひきずりこむあやしげな焔が燃えていたのです その顔にはあどけないと言ってもいいような無垢と 研いだ爪を突き立てるような欲情が ちぐはぐに同居していて つまり 言語の学が言いますように ことばはどういうわけか 故郷をもたないでさすらう娼婦のようなものなんですね ですからどういうわけか 地下鉄上社駅の東側にある箱馬車に乗ると 窓から見えるプラタナスのみどりはあざやかですし 眼をつぶればどういうわけか 星空をゆく天馬にひかれて どんなことばとことばのあいだでも 自由に往来できますし一夜の契りを結ぶことも可能ですが 実は週に一度 わたしは箱馬車で五五〇円のカレーライスとコーヒーがセットになった軽食をとるのですが たとえばどうしても漢字でアイサイとは書けないんですね では豚の涙とかしわだらけの岩石とか書けるかと言いますと どういうわけか 美しく聡明で貞淑な奥さんと書いた戦後詩人もいるわけです どういうわけか 詩人なんて昔から飲んだくれが多くて 先に死ねばかならず アイサイに悪口を書かれますよ それが理由というわけでもないでしょうが結局 兎は夜が明ける前に 戸棚のなかに押しこまれてしまいました それというのも毛をすっかりむしりとられて痛々しい兎は どういうわけか まっすぐに立とうとせず 右へ右へと傾いていっちゃうんですね それでいてどういうわけか倒れそうになると急に反転してこんどは左に身体を折り曲げるのです まるで兎が自分の長身を利用して疑問符を描いているようでしたね その人は不安にかられて もうそれを見ていられなかったんです こうして その人の戸棚はどれも兎だらけなのですが どういうわけか 戸棚もどんどんふえてゆくんですね 閉じこめられた兎たちは あばれたり 腹が減って死にそう 助けて下さい と叫んでもよさそうですが どういうわけか どの戸棚も静かです ただしばらくすると 古い戸棚から順になにか大事なものの腐りだすようないやなにおいが流れだします どういうわけかその人は腐臭のする戸棚にかこまれて いまのいま 詩を書き終わったところです・・・・

北川透
「ポーはどこまで変れるか」所収
1988

人を感動させるやうな作品を
忘れてもつくってはならない。
それは芸術家のすることではない。
少くとも、すぐれた芸術家の。

すぐれた芸術家は、誰からも
はなもひつかけられず、始めから
反古にひとしいものを書いて、
永遠に埋没されてゆく人である。

たつた一つ俺の感動するのは、
その人達である。いい作品は、
国や、世紀の文化と関係がない。
つくる人達だけのものなのだ。

他人のまねをしても、盗んでも、
下手でも、上手でもかまはないが、
死んだあとで掘出され騒がれる
恥だから、そんなヘマだけするな。
 中原中也とか、宮沢賢治とかいふ奴はかあいそうな奴の標本だ。それにくらべて
 福士幸次郎とか、佐藤惣之助とかはしやれた奴だつた。

金子光晴
「屁のやうな歌」所収
1962

伐材

斧の音がきこえる 斧の音の木魂がきこえる きれいにつみかさねられた空気の層がふるへて 樹木のなげきの身ぶりをつたへる ならべられた彼らの腕の切口に 樹脂が滲み出る 涙のやうに 木洩れ陽に光りながら・・・・

   *

ふかく打ちこんだ斧は しばらくは抜けない 樹木はしつかりと斧をつかまへるのだ あらはなその肌の傷口をかくさうとするやうに

   *

夏の日の午後
私はその樹の蔭でねむつた
本を読んだり 馬鹿らしい空想にふけつたりした
今日 ざはめく水のやうに
私は浴びる 伐り倒される樹木たちの影を
斧よ 鳴れ
さうしてはやく伐り倒せ その樹を
退屈で長かつたわが夏の日も

木下夕爾
「定本 木下夕爾詩集」所収
1966