たったひとつのことばを言へないために
こんなにも もどかしいのだ
ゆるさないのは わたしか 誰か
たったいっぴきの 目に見えないものの不在が
不当にも 愛を染め分けて
わたしの贈り物はいつも貧しい けれど
ひとりを ふるへながら壊しもしないで
失はれたものたちを どのやうに愛せるのか
わたしは坂道をかけ下りて
ビニールに梱包された死体を揺さぶる
老女よ 母でない母よ
塩鮭のやうに硬直し雪に埋まって
あなただけが知ってゐた
沈黙 こそがゆるしだったのに
そして嬰児よ
つひに孕まれなかったわたしたちのことばよ
塩鮭のやうに硬直し雪に埋まって──
たった一滴の涙を流せないために
夢のなかでさへ 唇をかむのだ
吉原幸子
「夢 あるひは・・・」所収
1976