指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ、
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。
津村信夫
「愛する神のうた」所収
1935
指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ、
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。
津村信夫
「愛する神のうた」所収
1935
本日スペクトラム展に足を運んできました!
@表参道スパイラルガーデンです。
表参道のスパイラルガーデンの30周年記念企画としてスペクトラム展が開催されています。
栗林隆、榊原澄人、高橋匡太、毛利悠子の4人のアーティストがそれぞれのアート作品を展示しています。
今回、私が足を運んだのは、これらのアート作品とコラボレーションする形で4人の詩人がそれぞれ公開制作を行うというイベントがあったためです。
参加した詩人はカニエ・ナハ、三角みづ紀、大崎清夏、谷川俊太郎。豪華メンバーです。
残念ながら公開制作の現場には立ち会えなかったのですが、アート作品と共に4人の詩人の言葉が展示されており、アートと詩の言葉の融合という新しい試みを堪能できました。
写真撮影は自由、入場無料との事で、パチパチ撮ってきましたよ!
こちらは毛利悠子さんの「アーバン・マイニング:多島海」です。
後ろに見えるのはLED証明に切り替えたため不要となった街路灯です。手前の物は空き缶で作った回路。
こちらが、アップの写真です。こうして見ると街路灯とは何か別の物体という感じがします。
空き缶で作ったミニチュアの街路灯です。こちらは、なんだか可愛らしい。
そしてこの作品について書かれた詩がこちら。カニエナハさんです。
また、こちらの作品は栗林隆さんの「Vortex」です。
原発事故の汚染土をつめたフレコンバッグをイメージした立方体の中に入るとこのような輝くシャンデリヤが現れます。これは一個一個のガラスが文字になっており、内容はアインシュタインがルーズベルトに送った原爆の開発許可を求める手紙の文章です。ただし鏡文字なので読むためには振り返って影を見る必要があるとか。
そしてこの作品には三角みづ紀さんの作品が。
そして谷川俊太郎さん
大崎清夏さんです。
カニエ・ナハさんの作品が限定30部で販売していましたので、1冊購入。
中身はこんな感じです。
ただ詩の作品を掲示するだけでなく、もっと斬新なことが出来たかもしれないと考えると少し物足りない感もありましたが、アートと詩の融合という新しい試みはなかなか興味深いものでした。
2015/10/18まで開催していますので皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか?
詳細はこちらです。
私はもう歌なぞ歌わない
誰が歌なぞ歌うものか
みんな歌なぞ聴いてはいない
聴いてるようなふりだけはする
みんなただ冷たい心を持っていて
歌なぞどうだったってかまわないのだ
それなのに聴いてるようなふりはする
そして盛んに拍手を送る
拍手を送るからもう一つ歌おうとすると
もう沢山といった顔
私はもう歌なぞ歌わない
こんな御都合な世の中に歌なぞ歌わない
中原中也
1935
── 詩集の美を鑑賞する ──
詩集は読むだけでも、もちろん楽しいですが、もうひとつの楽しみは実際に詩集を手にとってその装丁を楽しむことにあると思います。
美しい装丁にパッケージされた詩集は、所有することの喜びを与えてくれます。
古今出版されてきた詩集の数々は素晴らしい装丁のものが多いですが、ここでは、私管理人自らが購入した詩集の中からお気に入りの品々を紹介していきたいと思います。
第一回は小林坩堝さんの「でらしね」です。
最初に手にとった印象は「カッコいい!」でした。
オレンジ色一色に統一されたカバーが鮮烈な印象を与えます。
挟み込んである解説も、カバーと同じ用紙で統一されています。
解説は瀬尾育生さんと久保隆さんです。
オレンジのカバーを外すとこんな絵が。がらりと印象が違います。意外性があっていいですね。こちらが「本当の表紙」だそうです。
2013年思潮社刊、定価2400円(税別)、装丁は斎藤種魚さんです。
斎藤さんは漫画家でもあり、「コシヒカリの見た夢」を出版されてらっしゃいます。
こちらもシュールな絵が薄緑色のモノトーンに統一されたカバーで美しいですね。
「でらしね」とはフランス語で「根無し草」、転じて「故郷を喪失した人」を指します。
その名前に相応しく、デカダンスの雰囲気が濃厚な二十一篇の詩が収められています。幾つかは散文詩であり、小説を読んでいるかのようです。一般的な詩集より圧倒的に文字数が多いので満腹感もありますよ。
小林坩堝さんは1990年生まれ。この「でらしね」が第一詩集になります。
当サイトではこの「でらしね」から二篇の詩を掲載させていただいております。
是非読んで見てください!
残念ながら、「でらしね」アマゾンでは品切れ状態のようです。購入の際は、直接思潮社ホームページで注文するほうが早いようですね。
思潮社ホームページはこちらをクリック
まだ明けぬ夜のしじまに
彼は暗い海を指差し
沖へゆけ
と一言云った
彼はそれからだんまりだ
眼に小さな光を湛えて
彼は夜の灯台となった
沖へゆけ
海は荒れている
舟は不安定に波間を上下した
舟出に嵐
死にゆく者たちの為めにあるような
素晴らしい出航のとき
舟ははしる
波から波へそして沖へ
ランタンの灯はあかあかと
暗い夜風に瞬いて消えた
おお
この暗闇
すべてを
この世の凡そすべてを
呑み込んでなお余りある引力の不思議
セイルは破れ
舵は朽ち
しかし舟の突端は沖を目指す
夜明けだ
水浸しの部屋で
模造船を毀す戯れごと
沖へ
沖へゆけ
ベッドのうえに眠るセイラー
きれいに浄水された水槽
一呼吸に死んでゆく細胞
歪んで視えるテレヴィジョン
あぶくを吐き出し乍ら伝えられる朝のニュース
Tsunami、
と聴いた
まるでそれ自体が一体の生物であるかのような
死骸の街
戸を開けて
沖はまだか
海は天にあるのか地にあるのか
ふやけた足裏では判らない
彼は知っていた筈だ灯台
うつくしい潮の満ち引き
あらわに転がるは
陽の強さに黒く瓦解する
日常
そして
目指されぬ標となった
わたしたちの骨のざわめき
つぎつぎと透き通って消えてゆく
沖へと向かう舟の夢 夢
波音・・・・・、
小林坩堝
「でらしね」所収
2013
地下鉄は、都市の深奥を貫いて往く。
おれはドアのガラス越しに、
なにか、きらめくのを視た。
星屑のようなそれは、
闇のなかにいくつも視えた。
瞳だ、
下車すべき駅を喪失した、
乗車すべき駅を喪失した、たくさんの瞳、
が
濡れてこちらを視ているのだ。
おれはレールの軌道のうえ、
はしる列車の振動のうえ、
瞳は薄闇のなかで、呼んでいる、
ちかちかと瞬いて、
呼んでいる、呼んでいる、・・・・・・。
カーブを曲がると、プラットフォーム、
人びとの流れに身を任せ、
あかるい雑踏に佇むおれの、
胸に一輪、薔薇が枯れて散ってゆく。
季節は萌えず修辞され、
書きかえられない思い出を、
うつくしく飾るために造られる。
都市はいつも隠している。
鉄骨をご覧、アスファルトの舗道をご覧、
おまえのライトで照らしてご覧、
生白い足や、もの言わぬ唇、焼け焦げの痕、・・・・。
おれの、否、おれたちの足もとでくすぶっている、
にがい煙草の煙のようなもの、
おれたちが去れば、
ぬるい夜に消えてゆくだろう。
道路脇に手向けられている、
薔薇の花束が、視えるか。
死人に薔薇など似合わぬと、
おまえは暗く微笑んだ。
渦のような夢のなかで、おれはきみの名を呼んだ。
赤い赤いワンピース、
きみはなにか、巨きな影のようなものに包まれて、
おれに言葉を呉れない。
黒光りするまなざしが、
おれを知らない、と、語った。
おれはきみの名を呼んだ。
カーテンを閉ざすように、
きみは目を瞑り、影と消えた。
薔薇の似合うそいつのことを、
おれたちは知っているような気がする。
おれたちは忘れているような気がする。
けれども、薔薇は咲いたら枯れるだけ、
おれたち忘れて歩くだけ。
そして別れて背中を向けて、
都市の街路に散ってゆくだけ。
小林坩堝
「でらしね」所収
2013
霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ
影を落す影を落す
エンタシスある氷の柱
そしてその向ふの滑らかな水は
おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを
よくもあんなに光ってながれつゞけてゐたものだ
砂つちと光の雨
けれどもおれはまだこの畑地に到着してから
一つの音をも聞いてゐない
宮沢賢治
「詩ノート」所収
1926
朝幼稚園へ行った息子が
夜三十五歳になって帰って来た
やあ遅かったなと声をかけると
懐かしそうに壁の鳩時計を見上げながら
大人の声で息子はうんと答えた
今まで何していたのと妻が訊けば
息子は見覚えのある笑顔ではにかんで
結婚して三年子供はなくて仕事は宇宙建築技師
俺もこんな風に自分の人生を要約して語ったっけ
おや、こいつ若しらがだ
自分と同い年の息子から酒をつがれるのは照れるもので
俺は思わず「お、どうも」とか云ってしまう
妻がしげしげと息子と俺の顔を見比べている
だがそれから息子が三十年後の地上の様子を話し始めると
俺たち夫婦は驚愕する
よくもまあそんな酷い世界で生き延びてきたものだ
環境破壊、人口爆発、核、民族主義にテロリズム
火種は今でもそこいらじゅうに満ち溢れていて
ええっとその今が取り返しのつかぬ過去となった未来が息子たちの今であって
ややっこしいが最悪のシナリオが現実となったことは確かだ
あのう、駄目なのかな、これからパパやママが努力しても?
さあて、どうだろう、時間の不可逆性ってものがあるからねえ
妻は狂言の場面みたいに息子の袖を掴んで
ここに残って暮らすよう涙ながらに説得するが
それはやっぱり摂理に反するだろう
未来はひとえに俺たちの不徳のなすところなのに
息子は妙に寛大だ
既にその世界から俺が消え去っているからだろうか
聞いてみたい気がしないでもないけど
まあどっちでもいいや
「僕らは大丈夫だよ、運が良かったら月面移住の抽選に当たるかも知れないし」
息子はどっこらしょと腰に手をあてて立ち上がり
俺と握手をし妻の頬に外国人のような仕草で口づけをし
それから真夜中の闇を背に玄関で振りかえると
行って来まあすと五歳の声をあげた
四元康祐
「世界中年会議」所収
2002