険悪な天候

かしこい人は、

警報を見知つて

沖に出ない。

戦はずにゐられぬ人達は、

今いろいろなもくろみを胸にたたむ。

 

怖ろしくも心地よいほど残忍性に富んだ白蛇は、

青葉の蔭に休息してゐる。

 

粗末な人間の住み家、

一撃のもとに倒される人間。

 

じめじめした畳にすわり

腕組して向ひあつてゐる男女。

 

道化者の雷は

食後の散歩にやつて来る。

 

こちらの空に柔い雲が

むらむらと起つて

同志を呼びよせる。

 

敵でもこんなことをしてゐるのか……

白雲が黒雲にかはる。

 

……戦がはじまる前

………………………………

夕蝉の声を聞きながら、

地べたに腰をおろして

休んでゐる兵士達――

 

ひきつけられる雲の量が多くなる時、

空はにごつて、

電光は

二人の人影を

鮮かに黒土にうつして

すぐに消える。

 

桜庭芳露

「青森県詩集」所収

1948

丘の白雲

 大空に漂う白雲の一つあり。童、丘にのぼり松の小かげに横たわりて、ひたすらこれをながめいたりしが、そのまま寝入りぬ。夢は楽しかりき。雲、童をのせて限りなき蒼空をかなたこなたに漂う意ののどけさ、童はしみじみうれしく思いぬ。童はいつしか地の上のことを忘れはてたり。めさめし時は秋の日西に傾きて丘の紅葉火のごとくかがやき、松の梢を吹くともなく吹く風の調べは遠き島根に寄せては返す波の音にも似たり。その静けさ。童は再び夢心地せり。童はいつしか雲のことを忘れはてたり。この後、童も憂き事しげき世の人となりつ、さまざまのこと彼を悩ましける。そのおりおり憶い起こして涙催すはかの丘の白雲、かの秋の日の丘なりき。

 

国木田独歩

武蔵野」所収

1898

金魚

金魚のうろこは赤けれども

その目のいろのさびしさ。

さくらの花はさきてほころべども

かくばかり

なげきの淵に身をなげすてたる我の悲しさ。

 

萩原朔太郎

純情小曲集」所収

1925

 

雪の夜

人はのぞみを喪っても生きつづけてゆくのだ。

見えない地図のどこかに

あるひはまた遠い歳月のかなたに

ほの紅い蕾を夢想して

凍てつく風の中に手をさしのべてゐる。

手は泥にまみれ

頭脳はただ忘却の日をつづけてゆくとも

身内を流れるほのかな血のぬくみをたのみ

冬の草のやうに生きてゐるのだ。

 

遠い残雪のやうな希みよ、光ってあれ。

たとへそれが何の光であらうとも

虚無の人をみちびく力とはなるであらう。

同じ地点に異なる星を仰ぐ者の

寂蓼とそして精神の自由のみ

俺が人間であったことを思ひ出させてくれるのだ。

 

     1940年1月28日 蘇州にて

 

田邉利宏

「従軍詩集」所収

1940

疲労

南の風も酸っぱいし

穂麦も青くひかって痛い

それだのに

崖の上には

わざわざ今日の晴天を、

西の山根から出て来たといふ

黒い巨きな立像が

眉間にルビーか何かをはめて

三っつも立って待ってゐる

疲れを知らないあゝいふ風な三人と

せいいっぱいのせりふをやりとりするために

あの雲にでも手をあてて

電気をとってやらうかな

 

宮沢賢治

春と修羅 第三集」所収

1926

嬰児

私は、大阪の

みすぼらしい 子商人の 家の 末つ児に 生まれた、

上るとキイキイ音のする古い梯子段の下で、

私はいつも固い木箱に入れられたままで育つた。

 

私の周囲には売れ残りのものや、未だ季節の来ない商品が

ごみ捨て場の 塵芥の やうに 積み上げられてゐた、

身体を動かすと、そのうちの一つが私の動いた後へ転がり落ちた、

私が 一方に動くと、同じやうに他の一方が塞がれた、

動けば動くほど私の領分は小さくなり

私はそのなかに埋れて行つた、

声を立てて泣いたけれども

誰も私を救ひには来なかつた。

 

店には客が込んでゐた、

母も兄もその対手に忙しかつた、

誰も私のことなど構つてはゐなかつた、

天井から、丁度私の目の届くあたりに

誰が吊したのか赤い布切れのやうなものが下がつてゐた、

私はそれを眺めてゐた、

それが風に揺れるのを眺めてゐた。

 

然しやつぱり私は泣き出した、

一生懸命に身をもがいて

窮屈な木箱から外に出ようと

私はそればかりにかかつてゐた。

 

百田宗治

「百田宗治詩集」所収

1955

この一瞬

死ぬ。

産れる。

泣く。喚く。

気が狂ふ。

へたばる。のたくる。

跳ねあがる。

踊る。舞ふ。

突き飛ばす。

裸身。交接。褌衣。襤褸。大禮服。

流行する。時代遅れ。

破産。強制執行。蔵が建つ。

貴族。私生児。野良息子。才子。

多病。薄命。不良少年。

うろつく。闊歩する。

拘留。宿直。

大道で犬が交尾む。

中流婦人の萬引。坊主の人殺し。

停電。

活動写真のニコニコ大会。

惨めな葬列。

日比谷大神宮の物々しい結婚式。

車夫汗みどろ。

ポイント・マンの大あくび。

幇間のイヒヒ笑ひ。

 

相川俊孝

「万物昇天」所収

1924

 その夜は小雨が降っていた。私は喘息の咳

が止まらなかった。その明け方、<夢>を見

た。「幸ちゃん立派になったね。」と私の胸

をなでながら母が言った。久しぶりの母の声

だった。

 ふと目を覚ますと、母は舌が喉に落ちこみ

息ができずにもがいていた。慌てて母の体を

揺する。息を吹き返す。体位を変えると母は

気持ちよさそうに息をした。「もうゆっくり

お休みよ」私が母をあやし、さっきの夢の中

の母の声がやがて子守唄のように私を眠らせ、

私の腕の中の母自身も深く深く眠る。

 私と母の魂をつなげて、戸外の雨は風にな

がれ静かに降りそそぎ、夢のつづきではまた

「幸ちゃん私のことはもうよかよ。」と母が言

った。慌てて飛び起き、母のかすかな息を注

意深く確かめる。

 

藤川幸之助

ライスカレーと母と海」所収

2004

野球

王子電氣會社の前の草原で

メリヤスシヤツの工場の若い職工達が

ノツクをして居る。

晝の休みの鐘が鳴るまで

自由に嬉々として

めいめいもち場所に一人々々ちらばり

原の隅から一人が打ち上る球を走つて行つてうまく受取る。

十五人餘りのそれ等の職工は

一人々々に美くしい特色がある

脂色に染つたヅツクのズボンに青いジヤケツの蜻蛉のやうなのもあれば

鉛色の職工服そのまゝのもある。

彼等の衣服は汚れて居るが變に美くしい

泥がついても美くしさを失はない動物のやうに

左ぎつちよの少年は青白い病身さうな痩せた弱々しい顏だが、

一番球をうけ取る事も投げる事も上手で敏捷だ。その上一番快活だ。

病氣に氣がついてゐるのかゐないのか

自覺した上でそれを忘れて餘生を樂しんでゐるのか

若白髮の青年はその顏を見ると、

何故かその人の父を思ひ出す

親父讓りの肩が頑丈すぎてはふり方が拙い。

教へられてもうまくやれない

受取る事は上手だ。

皆んな上手だ、どこで習つたのかうまい、

一人々々に病的な美くしいなつこ相な特色をもつて居る。

病氣上りのやうに美くしいこれ等の少年や青年は

息づまる工場から出て來て

青空の輝く下にちらばり

心から讃め合つたりうまく冷やかしたり、

一つの球で遊んでゐる。

雜り氣の無い快活なわざとらしくなく飛び出し出た聲は

清い空氣の中にそのまゝ無難に消えて行き

その姿はまるで星のやうに美くしい

星も側へ行つて見たら

あんなに青白く、汚ないにちがひない

一人々々の汚ない服や病的の體のかげから

快活な愛が花やいでうつかり現はれる美くしさ、なつこさ、

鐘が鳴ると彼等は急に緊張して

美くしい笑ひや喜びや好奇心に滿ちた快活さを一人々々、

疊んでどこかへ隱したやうに

一齊に默つて歸つて行く。

 

千家元麿

自分は見た」所収

1918

すいつちよ

すいつちよよ、すいつちよよ、

初秋の小さき篳篥を吹くすいつちよよ、

その声に青き蚊帳は更に青し。

すいつちよよ、なぜに声をば途切らすぞ、

初秋の夜の蚊帳は錫箔の如く冷たきを……

すいつちよよ、すいつちよよ。

 

与謝野晶子

晶子詩篇全集」所収

1929