中学の音楽室でピアノが鳴っている。
生徒たちは、男も女も
両手を膝に、目をすえて、
きらめくような、流れるような、
音の造形に聴き入っている。
そとは秋晴れの安曇平、
青い常念と黄ばんだアカシア。
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
新任の若い女の先生が孜々として
モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。
尾崎喜八
「田舎のモーツァルト」所収
1966
中学の音楽室でピアノが鳴っている。
生徒たちは、男も女も
両手を膝に、目をすえて、
きらめくような、流れるような、
音の造形に聴き入っている。
そとは秋晴れの安曇平、
青い常念と黄ばんだアカシア。
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
新任の若い女の先生が孜々として
モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。
尾崎喜八
「田舎のモーツァルト」所収
1966
骸骨が歩く 宙づりになって
空洞の目にはスクリーン
映りはするが感じはしない
骸骨に恋をしかけ 未来を語る
そのおかしさに
骸骨は誰にも見えない涙を流す
血はもう流した 好きなだけ
骨はからから乾いていく
埋められるのも もう諦めた
粉々に崩れゆくのを 待つばかり
その気楽さに
骸骨は痙攣して笑う
廣津里香
「廣津里香詩集」所収
1967
In this life,
I was very minor.
I was a minor lover.
There was maybe a day, a night
or two, when I was on.
I was, would have been,
a minor daughter,
had my parents lived.
I was a minor runner. I was
a minor thinker. In the middle
distance, not too fast.
I was a minor mother: only
two, and sometimes,
I was mean to them.
I was a minor beauty.
I was a minor Buddhist.
There was a certain symmetry, but
it, too, was minor.
My poems were not major
enough to even make me
a “minor poet,”
but I did sit here
instead of getting up, getting
the gun, loading it.
Counting,
killing myself.
Olena Kalytiak Davis
From “The Poem She Didn’t Write and Other Poems”
2014
(川の名が私の住む町の名である、そのことを意識することもなく、わたしは、川のむこうがわへ出かけ、川のむこうがわから帰ってくる。)
ひとりの男が、厚ぼったい黒い布のようなものを、はげしくふりまわしている。対岸の堤防の上。もうひとりの男を殴りつけているらしい。空は低く垂れさがっていて、殴りつけている男も、殴りつけられている男も、はだかだ。いま、陽は没していくところだ。草のゆれている部分が左へ左へと移動する。上流の、葦のしげみのむこうに、ふいに馬の頭部があらわれる。空は低く垂れさがっていて、いま、鋭くひかるものがうちおろされるところだ。馬が、いかだにのった馬の全体が、みえてくる。二頭の馬は、流れに横むきになって、うごかず、水道の蛇口のような首をつきだしている。そのまなざしのさきで、ふくらむ水。なめるように、馬の腹の下を風が吹きぬける。馬の腹部から這いでた男が、ななめに、水を裂いて棹をつきいれる。すぐに棹はたぐられる。光のつぶつぶがはしる。いかだ師のひくいつぶやきが、ひくいつぶやきのまま、川の幅だけひろがる。空は低く垂れさがっていて、ねばりつく空気のなかを、はだかの男が泳ぐように、堤防から川っぷちの道にはしる。頭髪が草とともにそよぐ。ふたつの黒い影から、川づらへむけて、舌うちのように砂利がはねる。あそこには、おそろしいものが隠されているのだ。あの道はそのさきで曲り、坂につづき、坂をのぼりつめて、わたしの家までつづくのだ。空は低く垂れさがっていて、わたしは、馬の眼のなかにとらえられたまま、五寸釘となり、小さな黒点となる。川が大きくうねっていくところで、わたしは、消える。
山本哲也
「冬の光」所収
1979
詩集の美シリーズ。本日はカニエ・ナハさんの「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」を紹介いたします。
この詩集を紹介するに当たっては少し説明が必要になります。
2015年9月、表参道にあるスパイラルで開催された創立30周年記念企画として「スペクトラム展」が開催されました。これは現代美術の作品を、その作品にインスパイアされて作成された詩とともに展示するという斬新で意欲的な企画でした。詳細はこちらに記事にしていますので、よければご覧ください。
この企画の中で限定30部として特別販売されたのが今回紹介しておりますカニエ・ナハさんの「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」となります。(長いタイトルなので以下は「多島海」とします。)
三十周年記念なので、三十の作品を限定三十部!
このようにばらばらになっている詩の印刷された紙が半分に折られて30枚集められひとつのまとまった詩集として提示されています。
面白いのは「ばらばらになった紙」というところで、読者が好きな順番に入れ替えることが出来るという所ですね。
詩篇は読んでみると一つの流れとしてまとまったものもあり、どのような順序で書かれたのか、想像してみるのも楽しいです。読者のセルフサービスで編集できる詩集といったところでしょうか。
発想の元になっているのはこちらの毛利悠子さんの作品「アーバン・マイニング 多島海」です。実際の街灯を使って製作された大型のオブジェと小さな街灯の模型とプレスした空き缶を組み合わせたインスタレーション。
カニエさんの詩作品「多島海」はスペクトラム展の「詩の公開製作」というイベントで作成されました。5時間で作品を作り上げ、詩集の形にまとめ上げるという、いわば「即興詩集」です。時には何年も掛けて推敲する詩集とは真逆の手法ですが、それがかえって言葉の勢いとなり、読者に迫ってくるように感じられます。
残念ながら、限定三十部で販売された作品なので、書店等で入手することは出来ないのですが、今回はカニエ様から許可をいただき、この中から私が独断と偏見で選んだ二篇を紹介したいと思います。
こちらです。
その1
その2
また、カニエさんは今年「用意された食卓」という新たな詩集を上梓されております。こちらはもちろんAmazonでも入手可能です。第21回中原中也賞を受賞されております。興味を持たれた方はぜひどうぞ。
記憶ノ海ノソノ底デ
アナタガドンナニ忘レテモ
アノ日ノアナタヲ照ラシテル
アナタヲココマデツレテキタ
クジラノ目ヲシテミマモッタ
クラゲノテトテデツナガッタ
ドンナニ遠ク離レテモ
カレガ消エ
イツカアナタガ潰エテモ
アノヒノアナタヲ照ラシテル
イマコノトキモ
照ラシツヅケル
見エナイ灯リ
消セナイ灯リ
カニエ・ナハ
「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」所収
2015
骨の動物園、
骨の水族館で
飼育されている
正体不明の生物。
まっすぐに延びる
森の一部として
流れつづけ
地球の振動や
道路の重力と、いまも
たたかっている
カニエ・ナハ
「多島海のための舞踏会をめぐる三十の断章あるいはダンスショウ」所収
2015
その人は 汀をさすらっていた と云うのですか?
いいえ 丁度そこを 通り合わせていたのでしょう。
ええ こんなふうに、、、。 あっち向きに、、、。
どこからですか?
どこからだか そんなことが わかりそうなら 訊いてみたんですけどね。
アテなしの 実にどうでもいいような 歩きざまで
汀の崖の上を ヒョコ ヒョコ ヒョコ ヒョコ
千鳥の散らばってる方に向かって 歩いていったのです。
おや 崖? 汀じゃ なかったのですか?
ナギサなんて 云いましたかね?
ガケですよ。 百米のガケですよ。
ガケの上に 砂の浜があるのですか?
砂じゃ なかったですかね。 でも 奴さん 砂の上を踏んでるみたいに
ヒョコ ヒョコ ヒョコ ヒョコ 歩いていったんですよ。
千鳥が そんなガケの上に いるのですか?
千鳥でなかったとしたら ピンタ・シルゴだね。
そう ピンタの奴が 実に沢山 その人のまわりを
送り迎えでもするように 啼き交わしたり 翔び交わしたりして
ヒラヒラ と まるで もつれそうに
その人の足どりと にぎわい合ってる みたいなんですね、、、。
あなたは とめなかったの?
そっちは ガケだよ 行けないよ って 何度も云おうとしたんですけど
何しろ 先のことは チャンと心得ているような 足取りでしょう。
声をかける スキがありませんや。
そのまま 飛んだのかね?
いいえ まっすぐ 歩いていっちゃたって 云ってるでしょう。
抱きとめる ヒマは無かったの?
いいえ 南無 も 阿弥 も ありゃしませんや。
まるで 宇宙船みたいに フンワリ開いて 落ちていってさ
その落下が 無限を語るように
実に 長い長い 軌跡を曳いていっただけですよ。
酔っていたのでしょうね?
いいえ 酔った気配なんか ミジンも 感じられませんでした。
それとも 自殺?
冗談じゃない あんな自殺ってあるもんですか。
見事な水シブキが 音もなく その男のまわりに 口をあけただけでした。
あなたは 見たわけね? その男の 落ちてゆく姿を?
咄嗟に 私は泣いちゃった。 何が 悲しいって 云うんですかね?
あんなに キレイな 軌跡と 水シブキを 見たって 云うのにさ。
だから あの男は 死んでなんぞ いませんよ。
おや どうして?
どうしてって お日様を呑みこむようにしながら
ヒョコ ヒョコ ヒョコ 歩いていっただけですもの。
どこへ ですか?
さあ どこへって どこへでもいいようにさ。
あっち向きに さ。
檀一雄
「檀一雄詩集」所収
1975