(川の名が私の住む町の名である、そのことを意識することもなく、わたしは、川のむこうがわへ出かけ、川のむこうがわから帰ってくる。)
ひとりの男が、厚ぼったい黒い布のようなものを、はげしくふりまわしている。対岸の堤防の上。もうひとりの男を殴りつけているらしい。空は低く垂れさがっていて、殴りつけている男も、殴りつけられている男も、はだかだ。いま、陽は没していくところだ。草のゆれている部分が左へ左へと移動する。上流の、葦のしげみのむこうに、ふいに馬の頭部があらわれる。空は低く垂れさがっていて、いま、鋭くひかるものがうちおろされるところだ。馬が、いかだにのった馬の全体が、みえてくる。二頭の馬は、流れに横むきになって、うごかず、水道の蛇口のような首をつきだしている。そのまなざしのさきで、ふくらむ水。なめるように、馬の腹の下を風が吹きぬける。馬の腹部から這いでた男が、ななめに、水を裂いて棹をつきいれる。すぐに棹はたぐられる。光のつぶつぶがはしる。いかだ師のひくいつぶやきが、ひくいつぶやきのまま、川の幅だけひろがる。空は低く垂れさがっていて、ねばりつく空気のなかを、はだかの男が泳ぐように、堤防から川っぷちの道にはしる。頭髪が草とともにそよぐ。ふたつの黒い影から、川づらへむけて、舌うちのように砂利がはねる。あそこには、おそろしいものが隠されているのだ。あの道はそのさきで曲り、坂につづき、坂をのぼりつめて、わたしの家までつづくのだ。空は低く垂れさがっていて、わたしは、馬の眼のなかにとらえられたまま、五寸釘となり、小さな黒点となる。川が大きくうねっていくところで、わたしは、消える。
山本哲也
「冬の光」所収
1979