火を燃したり
風のあひだにきれぎれ考へたりしてゐても
さっぱりじぶんのやうでない
塩汁をいくら呑んでも
やっぱりからだはがたがた云ふ
白菜をまいて
金もうけの方はどうですかなどと云ってゐた
普藤なんぞをつれて来て
この塩汁をぶっかけてやりたい
誰がのろのろ農学校の教師などして
一人前の仕事をしたと云はれるか
それがつらいと云ふのなら
ぜんたいじぶんが低能なのだ
ところが怒って見たものの
何とこの焔の美しさ
柏の枝と杉と
まぜて燃すので
こんなに赤のあらゆる phase を示し
もっともやはらかな曲線を
次々須臾に描くのだ
それにうしろのかまどの壁で
煤かなにかゞ
星よりひかって明滅する
むしろこっちを
東京中の
知人にみんな見せてやって
大いに羨ませたいと思ふ
じぶんはいちばん条件が悪いのに
いちばん立派なことをすると
さう考へてゐたいためだ
要約すれば
これも結局 distinction の慾望の
その一態にほかならない
林はもうくらく
雲もぼんやり黄いろにひかって
風のたんびに
栗や何かの葉も降れば
萱の葉っぱもざらざら云ふ
もう火を消してしまはう
汗を出したあとはどうしてもあぶない
宮沢賢治
「春と修羅」補遺所収
1933
大みそかに映画をみる
年末になると、毎年子狸たちが家(うち)に疎開しに訪れる。
賭け事を好む天狗たちが、来年に振る賽子(さいころ)の中に入れる命を山に探しにくるためである。
床に落ちていた一本の白糸をすくい、指でつまんで、すとそれを引き抜いたときにある狸が言ったのは、
「あ これは線路に似ている。」
それで、皆で大笑いをしている。
疎開しているために、彼等の身長は私の握りこぶし程だが、
それでもたくさんの子狸たちが一斉に笑い転げると騒がしい。
廊下の奥で、今年の四月に亡くなった祖母が心配そうに顔をのぞかせている。
大みそかの日になって、夜、紅白歌合戦の決着もつかぬうちに、初詣をしに家を出た。
しばらく平坦の道を歩いた後、コンクリートの坂をずんずんと上がっていった。
酔っぱらったように、狸たちはアジア音楽の節回しの歌を歌っている。
向かいから子どもが母親と並んで歩いて来たが、疎開の狸たちに気がつかず行ってしまった。
「小さなものの横を通り過ぎるとき、自分がまるで化け物のように思える。」
親子にとって、蟻のように群れる狸の集団は、単に生臭い風に過ぎなかっただろう。
公園までたどり着くと、木々の葉が電灯に照らされ緑色に発光していた。
奥へは登山口が続いている。
我々は石造りの鳥居の建つ山の道を進み歩いた。
よく見れば、電灯の蛍光灯が葉を通り抜け山の中まで照らしているのではなく、木と木の間に、明るい映像の膜が張ってそれが光っているのだ。
木の葉の色が移り、映像はやや緑がかっている。
映像の中に私自身の姿はない。
これは、今年に私自身が体験したものであるからだ。
覚えのある声が、通り過ぎる木々の映像からざあざあと流れる。
「・・・・どんなことをするにしても、これは自分にしかできないことだと誇りを持つこと。些細なことでも、他の人にはできないことだと信じ誇ること・・・・」
あれは、今年の十月に定年退職をした業務監査室長の映像だ。
彼の横顔と、職場に向かって語りかけていた様子が上映されている。
カメラの前の白いキャビネットが、映像を少し塞いでいる。
あちらこちらで、映像の膜が張っている。
横目で確認しつつ、ひたすらに暗い夜坂を上る。
映画だろうかとも思う。
私は十一月に部屋を訪れていた男の服を捨てた。
電話がかかってきた時、もらった手紙を粉々に引き裂いてしまった。
荷物は全部捨ててほしいと言われた。
私は送り返したいと思ったが、住所を知る術もなく、また、戸棚にしまって眠ろうとすると、夜に扉を内から叩いてうるさい。
仕方なく透明の袋に包んで、所定の場所に置いていたら、住みかの決まり通りに業者に持っていかれてしまった。
山を上がるごとに、狸はもとの大きさを取り戻して駆け上がっていく。
面白がって人間に化ける者もいるが、その中に、覚えのある背の形がうつった。
夜は刻々と更けていく。
決して、浅くなっていくというものではない・・・・
そうして映像はいっそう濃く、鮮明になっていく。
(東京タワーが小さく見える、
東京スカイツリーも、もはや米粒以下だ・・・・)
明けろ明けろ!
毒をもって毒を制すが如くに、夜が一層に更けて、
一気に透明になる瞬間が訪れる!
霧に包まれているかと思った。
我々は無我夢中で山道を上がっているが、今年の思い出が、やがて不鮮明になっていくのを肌で感じている。
同時に、狸たちの姿も薄れていくだろう。
重なり合う音声が、徐々に遠くなっていく。
前を歩く狸は天狗を警戒しつつ、前につんのめりそうになりながら、さらに茂みの奥へと入っていった。
マーサ・ナカムラ
「現代詩手帖2016年1月号」掲載
2016
洗面器
( 僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。 )
洗面器のなかの
さびしい音よ。
くれてゆく岬の
雨の碇泊。
ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。
人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。
洗面器のなかの
音のさびしさを。
金子光晴
「女たちへのエレジー」所収
1949
詩集の美「ポエタロ」
ことばの持つ力とは何だろうか、この普段は特に気にもとめないような、素朴な疑問にじっくりと向き合う時間を与えてくれる、そのような作品です。
厳密に言えば、これは詩集ではないかもしれません。しかし、言葉にこめられた力を解放するものが詩であるならば、まぎれもなく詩集と言えると思います。
ポエタロは、覚和歌子さんによる短い詩文の書かれた47枚のカードから構成されています。カードは源・生命・人間・道具・つながり・やすらぎ・変容・宇宙の8つのジャンルに分けられています。
裏返しにしたカードの中から、一枚好きなカードを引き、(あるいは三枚)そこからのメッセージを自分なりに解釈するというのが、基本的な使い方です。
例えば今回私が引いたのはこの3枚のカード。
「本」と「歌」と「鏡」。それぞれのカードに書かれたメッセージを読むと、まず「本」から読み取れる「自ら問いかけること」、そして「歌」から「美しいものは外ではなく自分の内にある」ということ、そして最後の「鏡」で「自らの中に神性が宿る」ということ。これらから、「まず自分自身が何をやりたいのか見極めなさい。」というメッセージなのかなと考えました。
もちろん、これは私の解釈であって、人によっては同じカードから全く違うメッセージを引き出すこともあるでしょう。これが言葉というものの面白さであり、ひいては詩というものがはらんでいる可能性なのかなと思いました。
とはいえ、写真のように一枚一枚のカードについて詳細な解説もついています。丁寧につくってありますね。
解説文に「詩はチューブのような道具になりきった詩人を通して、人間を越えた位相から三次元に下ろされた言葉です」とあります。心を開くことで、自分が探していた答を受け取ることが出来るようになるかもしれません。
当サイトではこの「ポエタロ」からいくつかカードのメッセージを紹介しています。こちらです。
カードを引くのではなく、詩集を読むようにばらばらと気ままにめくっていくのも楽しいと思いますよ!
定価は3500円(税抜)Amazonでも購入可能です。(こちらです)
必需品
屋根 壁 窓 ベッド
パン 水 トイレット
書物はいらない
世界は小さな窓から眺めるだけで充分
電話 ぼくの詩集 テレビ
そんなものはいらない いらない
いらないから備えている
銀行の口座番号は原稿用紙に印刷しておく
老人老婆 小児 妊婦 青年
見ただけで気持が悪くなる
鏡を見れば
あらゆる人間が登場する
それで
猫は鏡を見ない
鏡には星空と海と砂漠が写っていればいい
そんなことを思いうかべるのは森の中
裸体の若い女性には興味があるが
裸体の思想はワイセツだ
人が通りすぎる
人が街角で消える
そんな瞬間 ぼくは死んだ人間に出会う
ぼくは不定型の人間になる
今日の必需品
ヒゲ剃りとパジャマ それに
ワインの赤 一本
田村隆一
「ハミングバード」所収
1992
おけら
帰るつもりだった
この急な坂を上って右に曲れば
見なれた狭い通りに出る
ところが道はゆき止りで
よその家の庭のようなところに出てしまった
あきらめて坂を降りて左に曲った
裏をかくつもりだった
そこは広い辻で
人はいなかったが犬がなんとなく歩いていて
どこかで鉦を叩きながら経を誦む声がしていた
誰かが私を窺っているような感じがあった
どうもにんげんではないらしい
また引き返したが焦りはじめていた
僕にはまだすることがたくさんあるのに
いつまで経っても家に着けないのではないか
とても身近に題材をとった詩を書く気分ではなかった
それは僕が俗物だからだろうか
それとも才能の問題だろうか
あたりには明るさが残っていて
こんな夢をみたことがあったのを思い出した
その時 誰かが隠れた
こんどはにんげんだ
路地の入り口を素早く雀蛾のように横切って
かどの格子がはまった家の二三軒先に消えた
近寄ってみようとした時
何者かが僕より先にその後を追って駆けていった
辻にはざわめきが満ちているのに
はっきりした物音はひとつもない
こんなことになってしまった発端を一所懸命に考えた
僕はどこから来たのだろう
ほんとうに家に帰ろうとしていたのだろうか
そうだ と本人が考えるのだからそのはずだが
現実はそうはなっていない
こんな思いにたくさんの人が耐えてきたのだろうと
焦りから自暴自棄に傾く心を押えて
踏みとどまったのは理性と呼ばれる心の働きか
えらい人が恥し気もなく教えた人生訓の杖が
広場と呼んでもいい辻のあちこちに落ちていたが
僕は疲れていてからだを跼めるのも億劫だった
いつかは今の辛さもいい思い出になるだろうか
そう考え直した時 仄暗い空間に白い百合が見えた
花は地面から逆に地中に伸びた茎の先で咲いている
小さなもぐらに似た虫が土を掻き出して
けなげにも花を守っている
逆冨士というのは聞いたが
逆百合というのははじめてだ
そんな光景は狂った末の諦めが創り出したのか
想像力が大切と誰かが言っていたが
たしかに以前は辻にいつも人が群れていて
物売りの呼び声も男と女の愁歎場もあった
そこでは一日ずつ遅く五月六日には菖蒲
九月十日には菊が薫ったのだ
その前を帽子に手を当てた紳士
重い荷を背負った中年の男
それに顔役やチンピラ 子供も通っていて
バスを待つ勤め人は新聞を読み
そのうしろで理髪店のねじり棒が
どこまでも上昇を続けていた
幻の天へ 存在しない権威を探して
僕は何をしにここに来たのだろう
きっと何かを探しに
犬も歩けば棒に当るというから
あるいは恋人に会いに
でも本当はそれも不確かなことだ
とうとう帰るのは諦めて
そっと傍らの深い穴を覗いてみた
底の方には水が溜っていた
その時 僕の背中には短い翅が生えはじめ
ああなんていうことだろう
水に映る顔はいつのまにか螻蛄になっていたのだ
辻井喬
「わたつみ・しあわせな日日」所収
1999
はじまりはひとつのことば
それは「ぼく」だったかもしれない
それは「そら」だったかもしれない
「あした」だったかもしれない
ひかりがはじけ あたりにとびちって
ひとつのことばのたねのなかには
きがもりがまちがひそんでいた
ひとつのことばのたねのなかで
ものがたりがはじまりをまっていた
どろだらけのしゃつ
ぬりえのかいじゅう
おとうさんのおさけくさいくしゃみ
おかあさんのおろおろ
あさやけとゆうやけをくりかえし
やがてぼくはおおきなふねをつくるだろう
さがしあてたいせきのかべをよじのぼるだろう
どんなげんじつもつくりおこせる
いつもはじまりはひとつのことばだから
しずかなゆきのはらにひびきわたる
おおかみのとおぼえのような
覚和歌子
「はじまりはひとつのことば」所収
2014