年末になると、毎年子狸たちが家(うち)に疎開しに訪れる。
賭け事を好む天狗たちが、来年に振る賽子(さいころ)の中に入れる命を山に探しにくるためである。
床に落ちていた一本の白糸をすくい、指でつまんで、すとそれを引き抜いたときにある狸が言ったのは、
「あ これは線路に似ている。」
それで、皆で大笑いをしている。
疎開しているために、彼等の身長は私の握りこぶし程だが、
それでもたくさんの子狸たちが一斉に笑い転げると騒がしい。
廊下の奥で、今年の四月に亡くなった祖母が心配そうに顔をのぞかせている。
大みそかの日になって、夜、紅白歌合戦の決着もつかぬうちに、初詣をしに家を出た。
しばらく平坦の道を歩いた後、コンクリートの坂をずんずんと上がっていった。
酔っぱらったように、狸たちはアジア音楽の節回しの歌を歌っている。
向かいから子どもが母親と並んで歩いて来たが、疎開の狸たちに気がつかず行ってしまった。
「小さなものの横を通り過ぎるとき、自分がまるで化け物のように思える。」
親子にとって、蟻のように群れる狸の集団は、単に生臭い風に過ぎなかっただろう。
公園までたどり着くと、木々の葉が電灯に照らされ緑色に発光していた。
奥へは登山口が続いている。
我々は石造りの鳥居の建つ山の道を進み歩いた。
よく見れば、電灯の蛍光灯が葉を通り抜け山の中まで照らしているのではなく、木と木の間に、明るい映像の膜が張ってそれが光っているのだ。
木の葉の色が移り、映像はやや緑がかっている。
映像の中に私自身の姿はない。
これは、今年に私自身が体験したものであるからだ。
覚えのある声が、通り過ぎる木々の映像からざあざあと流れる。
「・・・・どんなことをするにしても、これは自分にしかできないことだと誇りを持つこと。些細なことでも、他の人にはできないことだと信じ誇ること・・・・」
あれは、今年の十月に定年退職をした業務監査室長の映像だ。
彼の横顔と、職場に向かって語りかけていた様子が上映されている。
カメラの前の白いキャビネットが、映像を少し塞いでいる。
あちらこちらで、映像の膜が張っている。
横目で確認しつつ、ひたすらに暗い夜坂を上る。
映画だろうかとも思う。
私は十一月に部屋を訪れていた男の服を捨てた。
電話がかかってきた時、もらった手紙を粉々に引き裂いてしまった。
荷物は全部捨ててほしいと言われた。
私は送り返したいと思ったが、住所を知る術もなく、また、戸棚にしまって眠ろうとすると、夜に扉を内から叩いてうるさい。
仕方なく透明の袋に包んで、所定の場所に置いていたら、住みかの決まり通りに業者に持っていかれてしまった。
山を上がるごとに、狸はもとの大きさを取り戻して駆け上がっていく。
面白がって人間に化ける者もいるが、その中に、覚えのある背の形がうつった。
夜は刻々と更けていく。
決して、浅くなっていくというものではない・・・・
そうして映像はいっそう濃く、鮮明になっていく。
(東京タワーが小さく見える、
東京スカイツリーも、もはや米粒以下だ・・・・)
明けろ明けろ!
毒をもって毒を制すが如くに、夜が一層に更けて、
一気に透明になる瞬間が訪れる!
霧に包まれているかと思った。
我々は無我夢中で山道を上がっているが、今年の思い出が、やがて不鮮明になっていくのを肌で感じている。
同時に、狸たちの姿も薄れていくだろう。
重なり合う音声が、徐々に遠くなっていく。
前を歩く狸は天狗を警戒しつつ、前につんのめりそうになりながら、さらに茂みの奥へと入っていった。
マーサ・ナカムラ
「現代詩手帖2016年1月号」掲載
2016
「大みそかに映画を見る」はマーサ・ナカムラさんの許諾をいただいた上で掲載しております。
無断転載はご遠慮ください。
この詩を読んで興味を持たれた方は下記も参照ください。
マーサ・ナカムラTwitter
@e_dokkoisyo
雨をよぶ灯台 。面白かったです、
こういう感じの現代詩 があって、
ホントに よかった