おけら

帰るつもりだった
この急な坂を上って右に曲れば
見なれた狭い通りに出る
ところが道はゆき止りで
よその家の庭のようなところに出てしまった
あきらめて坂を降りて左に曲った
裏をかくつもりだった
そこは広い辻で
人はいなかったが犬がなんとなく歩いていて
どこかで鉦を叩きながら経を誦む声がしていた
誰かが私を窺っているような感じがあった
どうもにんげんではないらしい
また引き返したが焦りはじめていた
僕にはまだすることがたくさんあるのに
いつまで経っても家に着けないのではないか
とても身近に題材をとった詩を書く気分ではなかった
それは僕が俗物だからだろうか
それとも才能の問題だろうか
あたりには明るさが残っていて
こんな夢をみたことがあったのを思い出した
その時 誰かが隠れた
こんどはにんげんだ
路地の入り口を素早く雀蛾のように横切って
かどの格子がはまった家の二三軒先に消えた
近寄ってみようとした時
何者かが僕より先にその後を追って駆けていった
辻にはざわめきが満ちているのに
はっきりした物音はひとつもない
こんなことになってしまった発端を一所懸命に考えた
僕はどこから来たのだろう
ほんとうに家に帰ろうとしていたのだろうか
そうだ と本人が考えるのだからそのはずだが
現実はそうはなっていない
こんな思いにたくさんの人が耐えてきたのだろうと
焦りから自暴自棄に傾く心を押えて
踏みとどまったのは理性と呼ばれる心の働きか
えらい人が恥し気もなく教えた人生訓の杖が
広場と呼んでもいい辻のあちこちに落ちていたが
僕は疲れていてからだを跼めるのも億劫だった
いつかは今の辛さもいい思い出になるだろうか
そう考え直した時 仄暗い空間に白い百合が見えた
花は地面から逆に地中に伸びた茎の先で咲いている
小さなもぐらに似た虫が土を掻き出して
けなげにも花を守っている
逆冨士というのは聞いたが
逆百合というのははじめてだ
そんな光景は狂った末の諦めが創り出したのか
想像力が大切と誰かが言っていたが
たしかに以前は辻にいつも人が群れていて
物売りの呼び声も男と女の愁歎場もあった
そこでは一日ずつ遅く五月六日には菖蒲
九月十日には菊が薫ったのだ
その前を帽子に手を当てた紳士
重い荷を背負った中年の男
それに顔役やチンピラ 子供も通っていて
バスを待つ勤め人は新聞を読み
そのうしろで理髪店のねじり棒が
どこまでも上昇を続けていた
幻の天へ 存在しない権威を探して
僕は何をしにここに来たのだろう
きっと何かを探しに
犬も歩けば棒に当るというから
あるいは恋人に会いに
でも本当はそれも不確かなことだ
とうとう帰るのは諦めて
そっと傍らの深い穴を覗いてみた
底の方には水が溜っていた
その時 僕の背中には短い翅が生えはじめ
ああなんていうことだろう
水に映る顔はいつのまにか螻蛄になっていたのだ

辻井喬
わたつみ・しあわせな日日」所収
1999

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