少年チェホフは川で
水浴びをして風邪をひいた
風邪をひいたチェホフは医者へ通った
勉強して自分も医者になろう
医者になりたい
チェホフは夏じゅう
そう 思い続けた
──彼を一生苦しめた
胸の病気も
その夏休みの風邪からはじまった
大木実
「蝉」所収
1981
少年チェホフは川で
水浴びをして風邪をひいた
風邪をひいたチェホフは医者へ通った
勉強して自分も医者になろう
医者になりたい
チェホフは夏じゅう
そう 思い続けた
──彼を一生苦しめた
胸の病気も
その夏休みの風邪からはじまった
大木実
「蝉」所収
1981
これがかうなるとかうならねばならぬとか
これがかうなればかうなるわけになるんだから かうならねばこれはうそなんだとか
兄は相も變らず理窟つぽいが
まるでむかしがそこにゐるやうに
なつかしい理窟つぽいの兄だつた
理窟つぽいはしきりに呼んでゐた
さぶろう
さぶろう と呼んでゐた
僕は自分がさぶろうであることをなんねんもなんねんも忘れてゐた
どうにかすると理窟つぽいはまた
ばく
ばく と呼んでゐた
僕はまるでふたりの僕がゐるやうに
ばくと呼ばれては詩人になり
さぶろうと呼ばれては弟になつたりした
旅はそこらに郷愁を脱ぎ棄てゝ
雪の斑點模樣を身にまとひ
やがてもと來た道を搖られてゐた
山之口貘
「山之口貘詩集」所収
1958
そこにお前は立ちつくす
森の上の美しい日没
その異様なしずかさのなかで
お前は思う
もはやもとにかえることはできない
道化たしぐさも
愛想笑いも
もはや何ひとつ役に立たない
虚勢をはることも
たれにそうせよと言われたことでもなかった
笑うべき善意と
卑しい空威張り
あげくの果は
理由もなくひとを傷つけるのだ
お前を信じ お前の腕によりかかるすべてのものを
思うことのすべては言い訳めいて
いたずらに屈辱の念を深める
屈辱 屈辱のみ
自転車にも轢かれず
水たまりにも落ちず
ふたつの手をながながと垂れ
そこにお前は立ちつくす
ああ 生れてはじめて
日没を見るひとのように
黒田三郎
「小さなユリと」所収
1960
貧しい父は
娘をどこへも連れてゆけず
近くの町の公園で
ブランコに乗せ
倦きるとベンチに並んで
リンゴをむいてやった
肩をよせあう
父と娘に
風は冷たく吹いたが
陽ざしはやわらかく
娘の微笑みが 寂しい
父の気持をなぐさめてくれた
きょう
ブランコをゆすり
高みより微笑みかける
幼い娘はどこの子か
ベンチで微笑みかえす
父親らしい若い男は何をするひとか
からだも弱く辛かったあのころの日々
私のかわいいひとり娘
こころ素直に私は感謝する
生きてきた幸せを
きのうのことのようにおもい浮かべる
遠い日の日曜日の午後
大木実
「夜半の声」所収
1976
日本の若い高校生ら
在日朝鮮高校生らに 乱暴狼藉
集団で 陰惨なやりかたで
虚をつかれるとはこのことか
頭にくわっと血がのぼる
手をこまねいて見てたのか
その時 プラットフォームにいた大人たち
父母の世代に解決できなかったことどもは
われらも手をこまねき
孫の世代でくりかえされた 盲目的に
田中正造が白髪ふりみだし
声を限りに呼ばはった足尾鉱毒事件
祖父母ら ちゃらんぽらんに聞き お茶を濁したことどもは
いま拡大再生産されつつある
分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代が切りひらいてくれるだろうなどと
いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ
自分の腹に局部麻酔を打ち
みずから執刀
病める我が盲腸をり剔出した医者もいる
現実に
かかる豪の者もおるぞ
茨木のり子
「人名詩集」所収
1971
詩集の美。
今回は藤本徹さんの「青葱を切る」を紹介いたします。
白いシンプルな素材の紙にポンと配置された葱。青葱とはいいつつも、その色合いは黒に近く水墨画のような印象を受けます。鮮やかな色は避けられ、シンプルな色彩が選択されています。タイトルの手書き文字もさりげないですが、実に味わい深いです。
裏側にはその青葱を切るための包丁。表紙とは反対の左側に配置されたやや幅広の洋包丁です。
イラストは西淑さん。ホームページを拝見した所、普段はもっとカラフルなイラストを描かれているようですが、この詩集では敢えてそこを抑えて控えめなトーンでまとめられています。
ちなみに小さいシールで1800とあるのは、手書きのお値段シール。私家版のため、ISBNコードやバーコードは印刷されていません。個人的なことですが、私はあの醜いコードを心から憎んでいるので、嬉しいですね。
版型は少し大きめの文庫くらいのサイズ。押し付けがましさのない、さりげない存在感がよいです。
藤本徹さんの16篇の詩が載っています。トータル105ページ。ひとつひとつが比較的長めです。それぞれの詩篇にストーリーラインがあり、まるで短編小説のように読ませます。面白いのは、作品ごとに詩の主体が「わたし」「おれ」「あたし」と男女の間を切り替わっていくところ。
読者としては、詩の語り手=作者と思い込んでいるところがあるので、「あたし」が語り手になった時は少し虚をつかれた感じがしました。
藤本徹さんは1983年生まれ。2011年よりユリイカ、現代詩手帖に詩を投稿し始め、この「青葱を切る」が第一詩集だそうです。
今回、この「青葱を切る」から「檸檬」を紹介させていただきます。中でも最も構成の妙が際立っている作品と感じました。
私家版のため、入手は少し困難かもしれませんが、とても良い詩集です。興味を持たれた方は是非どうぞ。
入手方法はコメント欄にて。
引き絞られた呼び声が
ひかりにとけて
アスファルトに堆積する
枯れていく夏のふるえる手
耳を聾され
汗がにじんで
握りしめたのは
檸檬
*
おれ、瓶ビール飲んで
鯖の塩焼きと冷奴をつまんで
カウンターのなかの兄さんたちを眺めて
いたところ、ふいに
誰かに呼びとめられたような気がして
だけれども兄さん、水割りつくってるし
並んで座った男たちは無口
みな静かに夏の午後の
束の間の休息を味わっている
そうだ、いい午後だ
なんの心配もしなくていい
思って悠々と
煙草に火をつけた
そしたら
檸檬を握りしめて男
遠くからこっちを見ていた
蓬髪、破れた作務衣
自称陶芸家みたいな
あるいは田舎で十割蕎麦やってます
みたいな感じ
だけどその表情
その表情は無であった
まるでやせ細った樹木のように立って
檸檬ひとつ
優しく握りしめて
男、仁王立ちに立ってこっちを見ていた
瓶ビール
最後の一滴までグラスに注いで
もう一度見ると
もう男はいない
なんだったのだろうかと
考えてはみたもののわからない
けれどもなぜだかおれは
彼のことを知っているような気がして
忘れてはいけないことを忘れているような
妙な心持になって
ビールを一息にあおり
兄さんに清酒
コップ一杯二百二十円のを頼んで
夏だった
そとにはひかりが溢れていた
*
引き絞られた呼び声が
ひかりにとけて
アスファルトに堆積する
枯れていく夏のふるえる手
耳を聾され
汗がにじんで
握りしめたのは
檸檬
藤本徹
「青葱を切る」所収
2016