夜の葦

いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう
それを 誰れが どこで 見てゐたのだらう

とほい湿地のはうから 闇のなかをとほつて 葦の葉ずれの音がきこえてくる
そして いまわたしが仰見るのは揺れさだまつた星の宿りだ

最初の星がかがやき出す刹那を 見守つてゐたひとは
いつのまにか地を覆うた 六月の夜の闇の余りの深さに 驚いて
あたりを透かし 見まはしたことだらう

そして あの真暗な湿地の葦は その時 きつとその人の耳へと
とほく鳴りはじめたのだ

伊東静雄
「夏花」所収
1940

長い廊下

長い廊下を一人で
どしんどしんどしんと
大股で力を入れて歩いて見たい。
そうして時々、大声で怒鳴って見たい。
お──い

反響のない所で
力を入れて歩くのは、
損な気がする。
反響のない所で、どなって見るのも
消えてゆくのが淋しい。

どしんどしんどしん
あたりにそれが響く。
お──い
あたりにそれが響く。
その内を一人で、子供らしく歩いて見たい。

馬鹿な願いだ
むだな望みだ
しかし都会にすむ自分は、十年余り、
どしんどしんとやったこともない。
お──いと怒鳴ったこともない。

子供のように束縛されずに、
世間を顧みず、他人を顧みず、
ふるいまいたいのだ、怒鳴りたいのだ。
反響のある所で。
どしんどしんどしん、お──い。

武者小路実篤
武者小路実篤詩集」所収
1953

夢のなかでだけわたしは
叫ぶことができた
目尻に涙をひきながら

衿をたてて
停車場の角をまがる
するといつも 列車はうしろ姿なのだった

世界がわたしを包んでいるのに
わたしののばす腕は
いつも そのふちにとどかない

世界が あまりうつくしいので
目ざめて わたしは 名を呼べない

もどかしい自転車 だけが
枯れた桑畑の道をはしる

吉原幸子
「魚たち・犬たち・少女たち」所収
1975

「空っぽ」こそ役に立つ

粘土をこねくって
ひとつの器をつくるんだが、
器は、かならず
中がくられて空になっている。
この空の部分があってはじめて
器は役に立つ。
中がつまっていたら
何の役にも立ちやしない。

同じように、
どの家にも部屋があって
その部屋は、うつろな空間だ。
もし部屋が空でなくて
ぎっしりつまっていたら
まるっきり使いものにならん。
うつろで空いていること、
それが家の有用性なのだ。

これで分かるように
私たちは物が役立つと思うけれど
じつは物の内側の、
何もない虚のスペースこそ、
本当に役に立っているのだ。

加島祥造
タオ──老子」所収
2000

ああちゃん!

ああちゃん!
むやみと
はらっぱをあるきながら
ああちゃん と
よんでみた
こいびとの名でもない
ははの名でもない
だれのでもない

八木重吉
八木重吉詩集」所収
1942

詩の書棚(紀伊国屋新宿本店)

書店に行って、書棚を眺めるとそれだけでわくわくしてきませんか?
棚を作る、と言いますが、書棚の本の配置は、それだけで、それぞれの本の文脈を語るものです。そこで、詩の在庫が豊富な書店の書棚を撮影し、その内容をじっくりと検証しようと言うのが、この企画です。

まず第一番目は紀伊国屋新宿本店二階の詩コーナーの書棚から。撮影は2016年2/24です。

こちらの書棚はカリスマ書店員たる梅﨑実奈さんの選書により作られております。
さすがのセンスを感じさせる選書。具体的に見てみましょう。

まずは海外詩の書棚から。
写真をクリックすると拡大した画像が見られますよ!

まず、目立つのが吉川幸次郎の「杜甫詩注」十巻揃い。日本を代表する稀代の漢学者吉川幸次郎が生涯を掛けて編んだ渾身の著作です。
一篇の漢詩に詳細を極めた注を付けた作品。一度手にとって見て下さい。この注の詳細さに仰天すると思います。
これが十巻揃っているのを見ただけで感動です。分かってますな、という感じですね。
その他にもシェークスピア、ランボー、ジャン・ジュネ等、押さえるべき所はきっちりと押さえております。

そして海外詩書棚の二番目、パウル・ツェラン、マヤコフスキー、漢詩の関連書籍に並んで・・・・iichikoまであるではないですか!
ご存知の方は少ないかもしれませんが、あの焼酎のiichikoはかなり硬派の広報誌を出していまして、その密度の濃さは完全に広報誌のレベルを超えています。通常の書店で販売はしていないので、かなりなレアものと言っていいでしょう。

そしてこちらは日本の詩。
定番の現代詩手帖のバックナンバーから、宮沢賢治、金子みすず、立原道造のアンソロジーなど定番の書籍から、新書の解説書まで過不足無くラインナップ。

そして見よ!この現代詩文庫の品揃えを!ここまで数が揃っているのはやはり大型書店ならでは。さすが紀伊国屋書店。日本の書籍文化を代表する書店ですね!

しかし、まだまだこんなものではございません。さらに続き日本の詩人。若手詩人の最果タヒさんの詩集のPOPです。
その下にはちゃんと相田みつをの詩集も並んでいます。


そして、その下には長田弘、北村太郎がしっかりと品揃えされています。
北村太郎全詩篇の分厚さがやたらと目立ちますね!

そしてこちらは田村隆一の全集。その隣には谷川俊太郎がずらりと並ぶ。

そしてこちらはまどみちおの分厚い全詩集、吉野弘全詩集、吉本隆明詩全集、吉原幸子全詩など、圧巻の品揃え。


次は平台です。萩原朔太郎の猫町が目立ってますね。それと「月に吠えらんねえ」がちゃんと並んでおります。詩の棚にこの漫画が一緒に並んでいたのは私の知る限りこの書店だけです。

さらに現代詩手帖が三ヶ月分。そして中原中也賞を受賞した「長崎まで」にしっかりPOPが立っております。


こうして並べられるとやはり最果タヒさんの詩集の表紙が目立ちますね。個人的にはバナナタニ園の味のある表紙が好きです。こちらは吉本ばななさんの写真に、谷郁雄さんが詩を付けたもの。

そしてこちらの平台では茨木のり子のムックと料理の本。隣りには夏葉社の尾形亀之助の詩集が!近年再評価されている石原吉郎の詩集にPOPが付いています。

そしてこちらには最果タヒさんの手書きの色紙が二枚も!その下にはマヤコフスキーのかっこいい写真があります。

全体を通してみると、決してマニアックな品揃えに終始するわけでもなく、ポピュラーな所もおさえながら、マンガを一緒に並べてみたりして詩の書棚の間口を広く取ろうとしているのがよく分かります。ただそれだけでなく、マニアも唸らせる本がピンポイントでしっかり品揃えされています。
これだけの広いスペースを確保できるのは大型書店しか出来ないかもしれませんが、それを埋めようと思えば、かなりのセンスが求められるわけで、梅﨑さんの力量に敬服いたします。

さて、いかがでしたでしょうか?書棚の写真を見ているだけで、幸せな気持になってきませんか?アマゾンのリコメンドシステムもなかなかですが、書店の書棚には思いもよらぬ本との出会いの機会があります。首都圏にお住まいの方以外はなかなか紀伊国屋に足を運ぶ機会が無いと思うので、こちらの写真でバーチャルな書店めぐりを楽しんでもらえたら嬉しいです。

世界がほろびる日に

世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ

石原吉郎
禮節」所収
1974

永遠にやって来ない女性

秋らしい風の吹く日
柿の木のかげのする庭にむかひ
水のやうに澄んだそらを眺め
わたしは机にむかふ
そして時時たのしく庭を眺め
しをれたあさがほを眺め
立派な芙蓉の花を讃めたたへ
しづかに君を待つ気がする
うつくしい微笑をたたへて
鳩のやうな君を待つのだ
柿の木のかげは移つて
しつとりした日ぐれになる
自分は灯をつけて また机に向ふ
夜はいく晩となく
まことにかうかうたる月夜である
おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ
玉のやうな花を愛し
ちひさな笛のやうなむしをたたへ
歩いては考へ
考へてはそらを眺め
そしてまた一つの塵をも残さず
おお 掃ききよめ
きよい孤独の中に住んで
永遠にやつて来ない君を待つ
うれしさうに
姿は寂しく
身と心とにしみこんで
けふも君をまちまうけてゐるのだ
ああ それをくりかへす終生に
いつかはしらず祝福あれ
いつかはしらずまことの恵あれ
まことの人のおとづれのあれ

室生犀星
愛の詩集」所収
1918

二月の雪

陣痛三十三時間をこえしとき
かのよき看護婦は腕まくりして入り来たり
そのくくり顎の一ふりもてわれを室外に追いだせり
何が起るものなりや
ドアの握りをうしろ手にしめつつ
われは祈りのごとくうすき泪の湧くを感ず

廊下は長からず
つきあたりの窓より見おろせば
小学校校庭の雪は煤煙によごれたり
ここらあたりにてまわれ右をするは許されむ
思いきりてふりむけば
金属の道具を入れし容器をささげて
──そは消毒の湯気のひまに
うろこのごとくきらめきつつ──
べつの看護婦廊下を横ぎるところなり

何が起るものなりや

やがてして丈高き瀬戸教授はあらわれたり
彼は昇汞にて手をあらい
特徴ある耳たぶのうしろを見せてドアのなかにかくる

かくて──われは思う──すべての手はずはととのえられたるなり
あとはただ汝の力による
問題はただ汝なり
何ごとが起るとも
汝一人してそれを通り行かねばならず
そははたの者のまつたく手出しできざる
大いなる隔絶せられたる仕事なり
汝を激励するいかなる言葉もなく
汝のすがりうるいかなる柱もなしとわれは知る
われは
息子を法廷に送れる父のごとく
時が秒の目盛りもて過ぎ行くを感じつつ廊下を動く

中野重治
中野重治詩集」所収
1931

無題

夢の中の自分の顔と言ふものを始めて見た
発熱がいく日もつゞいた夜
私はキリストを念じてねむつた
一つの顔があらわれた
それはもちろん
現在私の顔でもなく
幼ないときの自分の顔でもなく
いつも心にゑがいてゐる
最も気高い天使の顔でもなかつた
それよりももつとすぐれた顔であつた
その顔が自分の顔であるといふことはおのづから分つた
顔のまわりは金色をおびた暗黒であつた
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下つてゐなかつた
しかし不思議に私の心は平らかだつた

八木重吉
貧しき信徒」所収
1927