ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の実を
ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ
何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない静かさで
単調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたつてゐたままに
弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ
ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ
立原道造
「萱草に寄す」所収
1937
夜
臥床に私の精神が透徹つてくるときがある
土の上に生きて居ると云ふことが
ひとりでにほゝえまれてくるときがある
晝間は私から遠ざかつてゐたものが
ことごとく私をみつめて私の周圍へにじりよつてくるので
この押詰つた瞬間をもて餘して遂に泣けてしまふ時がある
どんなときにも子供は晴やかに話しかける
すでに子供ではない私しに話しかけてくれる
私は眞劒に子供の話しを聞いてやらなければならない
すべてを父と母との愛に任せ
よなよな
丹念に玩具の積木を積上げる子供にはいさゝかの不安もない
たゞそのかたわらにその子の父である私が
その積上げられたりこわれたりにほろほろになつてしまふ
みんなねむれよ
お互ひをへだてゝゐる間の灯を消して
口を閉ぢて靜かにねむつてしまへ
私は暗がりに みんなの安らかな寝息をきいて
ねむりとともにみんなのこゝろが一ツによりそつてゆくのをおもふ
あゝかくも子供は私しを慕つてくれるし
妻はかくも限りなく信頼してくれるのに
私はみた
ねむりの中にもその子供の丸い背に投げかけてゐる妻の手に
そのすきまのないいつぱいの緊張を
かなしいものにめざめた臥床をめぐつて
夜明前の冷氣がしんみりと沁込んでくるこの部屋のこの暗がりに
私はむつくりと蒲團の上に置直つて
自分自身の両手をしつかりと組合せ
自分自身の秘密な考へに興奮する
瀨尾貞男
「岐阜県詩集1933」所収
1933
われらぞやがて泯ぶべき
そは身うちやみ あるは身弱く
また 頑きことになれざりければなり
さあらば 友よ
誰か未来にこを償え
いまこをあざけりさげすむとも
われは泯ぶるその日まで
たゞその日まで
鳥のごとくに歌はん哉
鳥のごとくに歌はんかな
身弱きもの
意久地なきもの
あるひはすでに傷つけるもの
そのひとなべて
こゝに集へ
われらともに歌ひて泯びなんを
宮沢賢治
「補遺詩篇」所収
1933
――おかあさん よう
またあのにわとりが鳴いている
どうききなおしてもやっぱりそうだ
おかあさん よう と鳴いているんだ
濁りある そのくせ遠くひびくこえで 愬えるように鳴くんだ
小雨のふっているらしい真夜中
低い雨だれの音が時々するから
いったい にわとりというものには
人間の魂が封じこまれているのではないか
不幸な やぶれた翼のような魂が
方々の天の下にこの鳥がいて
応えられることのない愬えの声を張りあげているのだ
おとうさん
というのも方々にいる
いやだなあ
あの絶望的な声の呼び方は
それどころではない
たかはしさあん というのがたしかにいる
たッかはしさん という風にいやに「か」にアクセントをつけて呼ぶのだ
この夏一寸葉山へ行ったら葉山にもいるんだ
あの声に呼ばれると 僕はますます痩せこけて
細長くなるような気がする
高橋元吉
「耶律」所収
1931
あれはとおいい処にあるのだけれど
おれは此処で待っていなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く
葱の根のように仄かに淡い
決して急いではならない
此処で十分待っていなければならない
処女の眼のように遥かを見遣ってはならない
たしかに此処で待っていればよい
それにしてもあれはとおいい彼方で夕陽にけぶっていた
号笛の音のように太くて繊弱だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待っていなければならない
そうすればそのうち喘ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違いない
しかしあれは煙突の煙のように
とおくとおく いつまでも茜の空にたなびいていた
中原中也
「在りし日の歌」所収
1936
Ⅰ
日曜日―僕らは幸福をポケットに入れてあるく 時々取出したり又ひっこめたりしながら 磨かれた靴 軽い帽子 僕らは独身もののサラリイマンです さうして都会よ 君はいつでも新刊書だ オレンヂエエドの風のあとに 見たまへあの舗道の上 またもプラタヌの並木の影はいつせいに美しい詩を印刷する 爽やかな拍手とともに
Ⅱ
百貨店―エレベエタアよ 気が向いたら地獄まで墜ちてくれたまへ 天国まで昇ってくれたまへ―ここは屋上庭園だ 遠い山脈 そして青空とアドバルウン ああ今僕らは感じる あの金網の動物たちよりももつと悲しく 都会よ 君の巨きな掌に囚へられてゐる僕ら自身を
木下夕爾
「田舎の食卓」所収
1939
夕方、私は途方に暮れた。
海寺の階段で、私はこっそり檸檬を懐中にした。
──海は疲れやすいのね。
女が雪駄をはいて私に寄添った。
帆が私に、私の心に還ってくる、
記憶に間違いがなければ、今日は大安吉日。
海が暮れてしまったら、私に星明りだけが残るだろう。
それだのに、
夕方、私は全く途方に暮れてしまった。
津村信夫
「愛する神の歌」所収
1935
私の切り離された行動に、書かうと思へば誰
でもクセニエを書くことが出来る。又その慾
望を持つものだ。私が真面目であればある程
に。
と言つて、たれかれの私に寄するクセニエ
に、一向私は恐れない。私も同様、その気な
ら(一層辛辣に)それを彼らに寄することが
出来るから。
しかし安穏を私は愛するので、その片よつ
た力で衆愚を唆すクセニエから、私は自分を
衛らねばならぬ。
そこでたつた一つ方法が私に残る。それは
自分で自分にクセニエを寄することである。
私はそのクセニエの中で、いかにも悠々と
振舞ふ。たれかれの私に寄するクセニエに、
寛大にうなづき、愛嬌いい挨拶をかはし、さ
うすることで、彼らの風上に立つのである。
悪口を言つた人間に慇懃にすることは、一の
美徳で、この美徳に会つてくづほれぬ人間は
少ない。私は彼らの思ひついた語句を、いか
にも勿体らしく受領し、苦笑をかくして冠の
様にかぶり、彼らの目の前で、彼らの慧眼を
讚めたたへるのである。私は、幼児から投げ
られる父親を、力弱いと思ひこむものは一人
も居らぬことを、完全にのみこんでゐてかう
する。
しかし、私は私なりのものを尊ぶので、決
して粗野な彼らの言葉を、その儘には受領し
ない。いかにも私の丈に合ふやうに、却つて、
それで瀟洒に見える様、それを裁ち直すのだ。
あゝ! かうして私は静かなクセニエを書
かねばならぬ!
伊東静雄
1935
釜底に沸沸ゆれる鯨の大脳よ。
けだるく油脂の臭ひはのぼり。
しだいに造花は鎔けてゆく。
曾つてあれら軟柔な皺襞のなかに
青い心象が燃えてゐたのだ。
古い記憶が生きてゐたのだ。
脳・・・・・・
茫乎としてああ涯しもない、
私は遠い過去世を思ふ。
混沌のなかに私は消える。
Heave ho! Heave ho!
斑に夕日をうけて人と機械は、
感覚のむかうにちらちら動く。
石川善助
「亜寒帯」所収
1936