Category archives: 2010 ─ 2018 (Current)

生命あるものの濡れるところ(抄)

 それらは、自らが何かであることを洗い流されて、逆に、これから何かでありうるような薄明の領域に打ち上げられたのだろうか。

 そのようにも見える。そして、物言わぬ物たちは、その背中に海の響きを潜ませているようにも。

 カーゴカルトと呼ばれる原始的な信仰の形態を思い出してもらいたい。たとえば、未開の種族の居住地に飛行機が墜落する。すると、彼らは天から降ってきたその機械を、神からの贈り物と思い込み、機体と積荷は信仰の対象となる。

 そんな激しい価値の転倒が、浜辺では、いつも起こりつつある。ときに膝を付き、ときには頭を垂れるような姿勢になるのは、そこが地の果てであって、この世の外に限りなく近いところのように思われるからではないのか。波と戯れる人々も、また、半裸の姿で、自分が誰かであることを、なかば風に攫われつつあるように見える。

 潮風が、髪に躰に、微細な海のかけらを積もらせていく。波は、あまりにも無造作に寄せては返し、その無造作ゆえに、時の鼓動となる。そんな波を、以前、思いがけないところで目にして、驚きに打たれたことがあった。映画館のスクリーンで。あれは「カルメンという名の女」という映画だったろうか。珍しくもない、眺め、そして、鼓動。

 そのとき、生物の心臓も別の時を刻み始める。

 漂流物。すでに何かであることを終え、その名を失ったもの。それでも、再び、誰かが彼らに名前を与えることはできる。そして、そのときまで、彼らは未生の状態でまどろんでいる。

 

城戸朱理

漂流物」所収

2012

沖へゆけと彼は云った

まだ明けぬ夜のしじまに

彼は暗い海を指差し

沖へゆけ

と一言云った

彼はそれからだんまりだ

眼に小さな光を湛えて

彼は夜の灯台となった

沖へゆけ

海は荒れている

舟は不安定に波間を上下した

舟出に嵐

死にゆく者たちの為めにあるような

素晴らしい出航のとき

舟ははしる

波から波へそして沖へ

ランタンの灯はあかあかと

暗い夜風に瞬いて消えた

おお

この暗闇

すべてを

この世の凡そすべてを

呑み込んでなお余りある引力の不思議

セイルは破れ

舵は朽ち

しかし舟の突端は沖を目指す

 

夜明けだ

水浸しの部屋で

模造船を毀す戯れごと

沖へ

沖へゆけ

ベッドのうえに眠るセイラー

きれいに浄水された水槽

一呼吸に死んでゆく細胞

歪んで視えるテレヴィジョン

あぶくを吐き出し乍ら伝えられる朝のニュース

Tsunami、

と聴いた

まるでそれ自体が一体の生物であるかのような

死骸の街

 

戸を開けて

沖はまだか

海は天にあるのか地にあるのか

ふやけた足裏では判らない

彼は知っていた筈だ灯台

うつくしい潮の満ち引き

あらわに転がるは

陽の強さに黒く瓦解する

日常

そして

目指されぬ標となった

わたしたちの骨のざわめき

つぎつぎと透き通って消えてゆく

沖へと向かう舟の夢 夢

 

波音・・・・・、

 

小林坩堝

「でらしね」所収

2013

薔薇は咲いたら枯れるだけ

地下鉄は、都市の深奥を貫いて往く。

おれはドアのガラス越しに、

なにか、きらめくのを視た。

星屑のようなそれは、

闇のなかにいくつも視えた。

瞳だ、

下車すべき駅を喪失した、

乗車すべき駅を喪失した、たくさんの瞳、

濡れてこちらを視ているのだ。

おれはレールの軌道のうえ、

はしる列車の振動のうえ、

瞳は薄闇のなかで、呼んでいる、

ちかちかと瞬いて、

呼んでいる、呼んでいる、・・・・・・。

カーブを曲がると、プラットフォーム、

人びとの流れに身を任せ、

あかるい雑踏に佇むおれの、

胸に一輪、薔薇が枯れて散ってゆく。

 

季節は萌えず修辞され、

書きかえられない思い出を、

うつくしく飾るために造られる。

都市はいつも隠している。

鉄骨をご覧、アスファルトの舗道をご覧、

おまえのライトで照らしてご覧、

生白い足や、もの言わぬ唇、焼け焦げの痕、・・・・。

おれの、否、おれたちの足もとでくすぶっている、

にがい煙草の煙のようなもの、

おれたちが去れば、

ぬるい夜に消えてゆくだろう。

道路脇に手向けられている、

薔薇の花束が、視えるか。

死人に薔薇など似合わぬと、

おまえは暗く微笑んだ。

 

 渦のような夢のなかで、おれはきみの名を呼んだ。

 赤い赤いワンピース、

 きみはなにか、巨きな影のようなものに包まれて、

 おれに言葉を呉れない。

 黒光りするまなざしが、

 おれを知らない、と、語った。

 おれはきみの名を呼んだ。

 カーテンを閉ざすように、

 きみは目を瞑り、影と消えた。

 

薔薇の似合うそいつのことを、

おれたちは知っているような気がする。

おれたちは忘れているような気がする。

けれども、薔薇は咲いたら枯れるだけ、

おれたち忘れて歩くだけ。

そして別れて背中を向けて、

都市の街路に散ってゆくだけ。

 

小林坩堝

「でらしね」所収

2013

蟲魔法

肉の煙がする、その中途で膨張する雨戸の霊

こんなにも絶望的な恋人の長い腕を見てる

蝶々の横っ面を思い切り殴ったお前の銀色の

    指から消えない手紙の一行目が見える

(もう戻れない)暗黒が横顔に住んでいる街

で、こう考える(イヤホンから流れる激痛)

テニスコートの左耳が切り刻む宇宙空間で

俺たちは透明になって瞑想している

椅子の上で逆立ちして叫ぶ十匹の魚、

あの瞼の切れ目は蛙だけが死にゆく世界の傷

口だってことを俺はいつからか忘れている

戦闘機が降る丘、

あの星とあの闇の間に潜む眠りの体液

細い道がいくつも連なる小石の嗄れ声の世界

致命傷を負った概念が集まるコンク

リートの内側、みんな動き出す(さて、)

自己と自己の間に曲がる獅子の宙返りを見た

ことがある奴はどれぐらい居るンだよ?

 

ポエジーの息がする

白く燻る俺の地獄の一角が泳いでいる、

お前の喘ぐその街の声だけに耳を傾け、

憎悪だけが鹿の周りを飛び跳ねてンだ

(いい気味だ)

そして写真は浮遊する

鳥を纏うビル街に乱立するお前の白い歯、

青い階段の真下で夕暮れに溶けていくのは

巨人が羅列した醜悪な数字だけだ、畜生

 

瞬きの合間に、爆発する花火の無声

赤と黄色の感情があるその両膝の上には、

昨夜俺が取り逃した猫の命が混じっている

(ああ、あんなに笑いやがる)

白いギターチューンが巻き付く、右腕に滴る

鷗の血に自転車の過去が見えた瞬間に、

包丁が高く高く飛んでいく

その時に巻き戻すことが出来る、

その空想には蟻が這っている

(俺から色素を取り除いてくれ

薄暗い泥に埋没した憧憬を踏み抜いてくれ)

いつだって後ろの正面には

見たこともない蒸気が柔らかく崩落している

ア、肩口に銀色の機関銃をねじ込まれる

気道から漏れ出す俺の哲学は、

白い羊皮紙となってナイル川のイメージの四

次元になる(そしてお前らはゐなくなる)

 

全て燃え落ちる屑鉄の無慈悲な白装束

カッターナイフは川に流れる直線の数々

に、なって、点と線、突き割る

聖人の耳に差し込んだ髑髏、

残月の匂いに巻かれた岬で自殺する雁の群れ

(詩人が殺されるのはこの後の国道13号線、

風流な濁点の行列)

ああ、もう段々に冷凍されていく空中庭園、

またはメトロノーム(消えそうな爪の痕

       火薬に滲むあの霧だ)

俺の虹色ならば悪い夢を見た直後に

烏にくれてやッたぞ 畜生

三分間が空中で硬直している

三歳児の群集が山を取り囲んで鳴っている

ロックンロールの鼻から吹き出す血まみれの

鉛筆の邪念が神の胃袋を食い破る

ああ(無垢な幻覚、その真下に)凪

狂った水牛の人類への侮蔑

脳天に突き刺さった屍の間に、

あらゆる比喩の刀が折れた音を聞いたならば

遠すぎる夜更けの、

白くなる空砲の隣に並んで、

君が見ていた景色の一部を持って帰ろう

 

落下していくあのビニール傘

あれらは全部俺が取り違えたものだ

青に染まる螺旋、その音楽が地平線

          に絡まったら、行こうか

(呪われない踏切まで

あと何センチメートルもない)

(呪われた乗客が隣にいるからだ)

(むしろ馨しい憎悪、

夥しい震えとなって接吻しよう!)

点線と点線が白濁するにはまだ早い

雲の切れ間に見える巨大な大群、朝は、

あそこの向こう側でせせら笑う死神の集合、

でしかない  哄笑する爬虫類の渦が見える

    走っていく生臭い激情の平原が見える

ははは、どうやら俺たちの前歯は、

悪魔の月光が映る赤煉瓦でしかなかった!

逆袈裟の稲妻が降る朝に就寝!

さらば小石、さらば地獄!

業火を侍らせる俺の天空!

念仏が気化する温度の中心で語れ!

 

気怠い光線、

 

しばらくの、魔笛

 

和合大地

現代詩手帖2015年8月号掲載

2015

The Erotics Is a Measure Between

 after Lorde

 

Your body is not my pommel horse

nor my Olympic pool or diving board.

Your body is not my personal Internet

channel nor my timeline,

nor my warm Apollo spotlight.

Your body is not my award

gala. Your body is not my game—

preseason or playoffs.

Your body is not my political party

convention. Your body is not

my frontline or my war’s theatre.

Your body is not my time

trial. Your body is not my entrance

exam or naturalization interview.

I am a citizen of this skin—that

alone—and yours is not to be

passed nor won. What is done—

when we let our bodies sharpen

the graphite of each other’s bodies

—is not my test, not my solo

show. One day I’ll learn. I’ll prove

I know how to lie with you without

anticipating the scorecards of your eyes,

how I might merely abide—we two

unseated, equidistant from the wings

in a beating black box, all stage.

 

Kyle Dargan

From “Honest Engine

2015

 

エロティック 相手との距離を測るもの

 

ロードに倣いて

 

あなたの肉体は私の鞍馬ではない

私のオリンピックプールでもないし

飛び込み台でもない。

あなたの肉体は私のネットチャネルではないし、

私のタイムラインではない。

私の「アポロ」の暖かいスポットライトでもない。 *

あなたの肉体は私の祝祭の報いではない

あなたの肉体は私の試合 ─プレシーズンあるいはプレイオフの─ ではない

あなたの肉体は私の政党の大会ではない。

あなたの肉体は私の前線ではない。

あるいは私の戦争の劇場ではない。

あなたの肉体は私のタイムトライアルではない。

あなたの肉体は私の入学試験ではない。

あるいは移民審査ではない。

私はこの肌の市民である

─ただそれだけ─

そしてあなたは

通過することも

勝利することもない。

なされたこと ─

我々が自らの肉体を研ぎ澄ませる時

それぞれの肉体の黒いチョーク

─それは私の試験ではない。

また私のソロのショーでもない。

いつの日か

私は学ぶだろう。

私は証明するだろう

私があなたを欺くすべを知ったことを。

あなたの瞳の値踏みを見越すことなく。

私はただじっと待つ

─我々二人

落馬して、

翼から等しい距離で

全てのステージで

ブラックボックスを叩きながら

 

* 訳注 アポロはニューヨークハーレムにある劇場

父をひそめて

つま先にタイツをくぐらせる私の前で

母は アラッと声を上げた。

私の足首を引き寄せて、ため息と共に告げる。

「あんたの足の爪、

お父さんにソックリね」

父の足の爪なら覚えている。

年老いた歯にも似たそれは、

立ち尽くめの手仕事を彷彿とさせる。

一日三十人余りの口を覗き込み、

せっせとガーゼを詰めている父。

けれど、この両足を並べてみれば

見慣れた私の爪が顔を出す。

「ホラ、この小指のあたりとか・・・・・。

やっぱり親子ねェ」

感嘆する母に背を向けて

そっとタイツを引き上げる。

タイツは薄いブラウンで、

細かなダイヤの模様が編み込まれている。

 

いつでも切り離してさよならできると信じてきたのに、どこへ体を届けても、私は父を生やし、父のように歩くのだろうか。父の跡を地面に残しては、こっそりとうずくまったのか。湧き出す水のようには、生まれることができなかった。どこからともなく流れてきた、混じり気のない私そのものとして目覚めたい。歩んでいきたい。けれど、水を見つめる私の前につま先がある。紛れもないこの足で、砂利を踏み分けてきたから。

 

この足が、父と私の

何を結びつけるのだろう。

問いかけたい気持ちを背後に追いやり、

背中のジッパーを撫ぜる。

黒いワンピースが

この身をひとつに束ね上げ、

めくれた裾は父の足を投げ出している。

入念に乱れを整えれば、

膝頭は身をすくませて

布の陰に隠れていった。

 

すんなりと父をひそめて、

私は街へ出かけゆく。

新しい水脈を追って

駆けていく。

 

文月悠光

屋根よりも深々と」所収

2013

黄色い翅

脈拍をおしはかりながら

心臓がゆっくりとはばたき始めた。

私が驚いた隙に心臓は脈を速め、

ひといきに舞い上がる。

振り仰げば、それは一匹の蝶の姿をしていた。

鱗粉をまとって黄色に輝く翅、

黒々と目立つ複眼。

口もとには細い管が端整なうずを巻いていた。

 

「十九年も一緒だったのに、自分の心臓が蝶とは気づかなかった」

蝶は羽ばたきの速度をゆるめ、私の鼻先で触角をかしげる。

血がみなぎっていたはずの左胸に手を当てると、

そこは冷たい空洞と化し、恐ろしいほどに寡黙だった。

まつげの奥から蝶を見つめて、まばたきで話をしたい。まばたきは、はばたきと同じで、よろこぶ翅の所作だから、蝶は私のまつげが気に入ったよう。

(蜜を口いっぱいに含みながら、わたしたちは花々をあとにする。わたしたちがいないとき、花は咲かない、咲いてはならない)

 

口先を研ぎ、蝶はしたたかに蜜を吸い上げる。

花から飛び立つごとに、その影を大きくして。

やがて蝶の航路が起伏を帯び、拍子をとりはじめる。

私の鼓動のしらべだろうか、

からだのそとで脈を奏でる蝶のかげが濃い。

左胸をひらいてみせると

蝶は待ちわびていたように身をひるがえし、

左胸へ舞い降りた。

蜜があたたかく染みわたれば

花の香に包まれて、唇がゆるむ。

鼓動と共に

私の口からことばがこぼれ出る。

 

内から響き始める拍動に

黄色い翅が舞い立ち、

連なっていく。

 

文月悠光

屋根よりも深々と」所収

2013

In Tongues

 for Auntie Jeanette

1.

Because you haven’t spoken

in so long, the tongue stumbles and stutters,

sticks to the roof and floor as if the mouth were just

a house in which it could stagger like a body unto itself.

 

You once loved a man so tall

sometimes you stood on a chair to kiss him.

 

2.

What to say when one says,

“You’re sooo musical,” takes your stuttering for scatting,

takes your stagger for strutting,

takes your try and tried again for willful/playful deviation?

 

It makes you wanna not holla

silence to miss perception’s face.

 

3.

It ain’t even morning or early,

though the sun-up says “day,” and you been

staggering lange Zeit gegen a certain

breathless stillness that we can’t but call death.

 

Though stillness suggests a possibility

of less than dead, of move, of still be.

 

4.

How that one calling your tryin’

music, calling you sayin’ entertaining, thinks

there’s no then that we, (who den dat we?), remember/

trace in our permutations of say?

 

What mastadonic presumptions precede and

follow each word, each be, each bitter being?

 

5.

These yawns into which we enter as into a harbor—

Come. Go. Don’t. says the vocal oceans which usher

each us, so unlike any ship steered or steering into.

A habit of place and placing a body.

 

Which choruses of limbs and wanting, of limp

linger in each syllabic foot tapping its chronic codes?

 

 Tonya M. Foster From “A Swarm of Bees in High Court

2015

 

言葉の中で

 

ジャネットおばさんに

 

1.

あんまり長い間、喋らなかったから、

舌はもつれ、つっかえて、

はりついてしまうのだ。天井や床に。まるで口が

ちょうど家であるかのように 中で舌は千鳥足だ。

 

昔、とても背の高い男を愛した。

キスする為に椅子の上に立たなければいけなかった。

 

2.

何と言えばいいんだろう。

「とっても音楽的ですねえ」なんて言われて。 どもりをしゃべくり芸に

ふらつきを気取りに

何度もやりなおしているのを わざとやっているおふざけだと思われて。

 

もう伝えようとする気持ちも失せた。

誤解している顔に向かうと 何も言えない

 

3.

朝早いわけじゃないの

太陽はとっくに昇っているんだけど ずっと

ふらついている 「ナガキジカンニワタル」

息の詰まるような静寂。 死と呼ばざるを得ないような。

 

だが、静寂は可能性を示唆するのだ

死んではいない 動く まだ生き続ける 可能性を

 

4.

挑戦を音楽と呼ばれるのはどう?

話しているのを娯楽扱いされるのは?

言葉を並べたてても、我々が思いかえし、復唱する事が全く無いとしたら?

(ワレワレトハダレナノダ)

 

何てものすごい思い込みが先走り、そして

追っているのだろう、ひとつひとつの言葉を、存在を、苦い実存を

 

5.

この大きな口の中に入っていくの?まるで港に入っていくように

来て。行って。やめて。海は語りかけ、先導する

われわれを。 操舵されるどんな船にも似ずに。

言葉を配置していく。

 

詩句と欠乏の唱和なのか、それとも

いつまでも続くコードで、音節のステップを踏みながら、よろめき、ぐずぐずしているのだろうか?

 

春と棘

誰もが指の先の棘を持て余しているのです

僕は少しのためらいもなく僕の内部で嘘の日蝕を許してみせています

影は何の約束もせずにとても真っ黒い影を追っています

春の石ころが春の石ころに蹴られている時です 初蝶になじられています

この時です 僕は必死に僕の内臓を歩き続けています この時です

ああ鳥の影が鳥を追って笑い続けています

その先の沼の中に見つけたことのない海があります

僕は指の中の棘を気にしています 静かに息をこらして

じっと見つめているうちに刃はずっと鋭くなります

昨日はくるみの木の梢の先が刺さっていたからです

一昨日は不穏な曇り空が刺さってきたからです

その前の晩は大きな猫の夢が指の内部で破裂したからです

 

ところで僕は坂道の途上にいます 上るほどにどんどんと痛みます

あるいは痛まないのです

指の先で思想を磨く棘を どうしようもないままに

ゆるやかな坂を行けば 折れ曲がった枝が落ちています

拾い上げると犬の声が耳を汚しています 鮮やかな草原で枯れてゆく

さるすべりの木と影と風とを思い出しているのは僕の脾臓であります

 

僕の指の中の棘はしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で

すると僕の指の中がしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で

僕はここに居るが僕はここには居ないのです

僕はゆるがない激痛の指先であるが 僕は少しも痛まないのです

僕は怖ろしいほどの現在ですが 僕は静謐な過去の比喩なのであります

 

ここまで生きてきた時間の内部で交わしてきた

絶対に破ることのできない約束を直立させる黄色い鉄塔が

僕の指の中にあります

僕の今日のなかで宇宙は尖り続けます

見知らぬ意味が さらに先へと国道を折り曲げていくときに

光り輝く黄色い小指が僕の人さし指の中で真っすぐに立っているのです

 

魚群は 群れを失くしながら静かな青空の理由を知らないのです

雲雀が無風の明日の上で大きくけんけん跳びをしているから

指紋の中で渦巻いている縄文時代の記憶を呼び覚ますと

0点の答案の上の黄色いボールペンが僕の指の中にあるのです

春の小海老の大群が桃色に染め上がっていくうちに

幼い日の空っぽのゲタ箱の中で青い時間が

澄み切ってゆくのを従兄弟と十姉妹はどうやって知ったのでしょうか

 

いくら踏んでも御喋りしているのは足の裏と何億もの影法師たち

眼帯の裏にあるのは霧の中の津波です 輝かしい孔雀に頬寄せて

内なる若葉の季節の反感にむせび泣けば たどりつくのは初夏の破約です

無人のブランコが世界を坐らせて背中を押しています

誰も訪れない集会所の鉄の扉の傷をどうしようもない

正午の庭先の黄色い柿の木は僕の指の中にあるのですから

黄色い電信柱なども みんな僕の指の中にあるのですから

 

ところで僕は 棘はどうするのでありますか

どうしたって 抜けないのです

指の中の激しい無痛あるいは無感覚の痛ましさ

僕はかけがえのない何かを信じています

ならば棘を抜こうとするのは止したほうがいいのです

 

ああ何という清潔な春の坂道なのでしょう

坂を上っていくほどに尖る指の中の棘があるのです

新しい時の前触れであるのです

僕はひどく指の中の棘を気にしているからであります

坂の下へと伸びていく僕の影はこのようにも

僕の魂の奥で新しい棘になっていきます いくのです

これを抜いて下さいよ これを抜かないで下さいよ

 

僕は傷ましい指先を濡らして

坂道で息を止めて初めての蝶を追っている

春の残酷な悪魔であります

雲の隙間から洩れる陽光をひどく呪っています

その小さな羽に山河の季節の輝きを見つけてしまい

驚いています ほら

僕の脳みそに鋭い風が突き刺さるのです

これが僕の愛のただなかにある

春の雷の兆しそのものなのかもしれないのです

 

和合亮一

廃炉詩篇」所収

2010

鳥の意思、それは静かに

時間がないと

あなたの声がして

水色のひかりが

瞬き続けるのが見えた

 

深淵を覗き込もうとする無数の眼を

ひたすらかき分けて進む

子どものような眼で

誰も知らない街へ会いにゆきたい

 

わたしたちは違うが故に平等であると

思うのだけれど

その意識はほんとうか

誰もが理想を隠し持っていて

そのことは驚くにはあたらない

 

一本の線から

たちまち拡がってゆく概念が

わたしを怯えさせ

そして支え続けている

地平に燃え拡がってゆくのだ

静かに 簡潔に

意思となるだろう前提を秘めて

遠く

 

静かな瞬きは

やがて白く大きな鳥に変わり

我々を乗せて

ずっと淡くけぶる水平線の向こうまで

飛んでゆくのだ

 

宮岡絵美

鳥の意思、それは静かに」所収

2012