生命あるものの濡れるところ(抄)

 それらは、自らが何かであることを洗い流されて、逆に、これから何かでありうるような薄明の領域に打ち上げられたのだろうか。

 そのようにも見える。そして、物言わぬ物たちは、その背中に海の響きを潜ませているようにも。

 カーゴカルトと呼ばれる原始的な信仰の形態を思い出してもらいたい。たとえば、未開の種族の居住地に飛行機が墜落する。すると、彼らは天から降ってきたその機械を、神からの贈り物と思い込み、機体と積荷は信仰の対象となる。

 そんな激しい価値の転倒が、浜辺では、いつも起こりつつある。ときに膝を付き、ときには頭を垂れるような姿勢になるのは、そこが地の果てであって、この世の外に限りなく近いところのように思われるからではないのか。波と戯れる人々も、また、半裸の姿で、自分が誰かであることを、なかば風に攫われつつあるように見える。

 潮風が、髪に躰に、微細な海のかけらを積もらせていく。波は、あまりにも無造作に寄せては返し、その無造作ゆえに、時の鼓動となる。そんな波を、以前、思いがけないところで目にして、驚きに打たれたことがあった。映画館のスクリーンで。あれは「カルメンという名の女」という映画だったろうか。珍しくもない、眺め、そして、鼓動。

 そのとき、生物の心臓も別の時を刻み始める。

 漂流物。すでに何かであることを終え、その名を失ったもの。それでも、再び、誰かが彼らに名前を与えることはできる。そして、そのときまで、彼らは未生の状態でまどろんでいる。

 

城戸朱理

漂流物」所収

2012

One comment on “生命あるものの濡れるところ(抄)

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