妻を抱きしめると
彼女は年を遡っていく
今日の妻は昨日の妻になり
昨日の妻は一昨日の妻になる
彼女の時間が逆戻りしていく
一年前の妻 二年前の妻
治った傷がまた口を開き
怪我する前のきれいな肌へと戻っていく
三年前の妻 四年前の妻
私の腕の中で目をつむり
血液は逆さに流れていく
私と共に過ごしてきた
長い時間の中で刻まれた
皺の一つ一つ伸ばされていく
結婚したての頃
デートを重ねた頃
妻を抱きしめ続けると
さらに彼女は年を遡る
今とは髪形が違っていた頃
私と付き合い始めた頃
私が妻と会う前の
私が知らない妻の頃
腕の輪の中 とても小さな空間で
妻は時を遡り続け
形を戻し続ける
今の彼女の面影を残しながらも
年の若いほうへと
体も小さいほうへと
私はそれを腕の輪の外から
惑星の一生を巡るように見届けている
抱きしめる妻は
実家暮らしの高校生の頃
あどけない中学生の頃
活発な小学生の頃
私の知らない時代の妻に
留まることなく戻っていく
お花を摘んだ幼稚園の頃
言葉もあやふやな幼児の頃
窓の外では陽が沈みかかっている
古い時計はカチカチと動いている
電灯もついていなくて薄暗い部屋
西日だけが二人を焼く
包み込んで抱いた妻は
音も立てず流れるように
幼く小さく戻っていく
時間と成熟を取り除いていく
幾十年生きてきて
それなりの疲れを宿した私の腕
その中で私の知らない時代へと遡っていく妻は
胎児へと還って
あまりにも小さくなった妻は
人の姿から魚の姿へと変わり
分裂した細胞たちは次々に結合していき
受精卵から精子が飛び出した瞬間
私の腕の中で妻は
無となった
幾十年の年月を
共に過ごしてきた妻は
私の腕の中
そこに形はない
そこに鼓動はない
しかし私は妻を抱いている
無である妻をせいいっぱい
抱きしめている
私が手をほどくと
遡った時間は今の時へと戻ってくる
無から原子を集め 姿を作り
体積を増やして 妻を形成していく
一度はほどかれた時間が
次々に編み戻されていく
そして春風に若葉が芽吹くよう
瞬く間に妻は今の妻へと戻り
つむったまぶたを開けた
幾十年もの間
二人並んで同じ景色を眺めてきたその瞳で
私のことをじっと見つめたかと思うと
「夕飯作るね」と言って立ち上がり
私の腕の輪の中から出ていった
渡辺八畳@祝儀敷
「詩と思想」2017年5月号掲載