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帽子

学校の帽子をかぶつた僕と黒いソフトをかぶ

つた友だちが歩いてゐると、それを見たもう

一人の友だちが後になつてあのときかぶつて

ゐたソフトは君に似あふといひだす。僕はソ

フトなんかかぶつてゐなかつたのに、何度い

つても、あのとき黒いソフトをかぶつてゐた

といふ。

 

立原道造

手製詩集「日曜日」所収

1933

接吻

ロシヤ人よ

君達の国では

──たふれるまで飲んでさわいだ(註1)

あのコバーク踊りは、もうないだらう。

だが悲しむな、

ドニヱプルの傍には

君等の心臓は高鳴り、踊つてゐるだらうから、

君等は飛び立つた、夜鶯のために悲しむな、

よし夜鶯はゐなくても

幸福な夜は君等のためにやつてきてゐるから、

君はもつと君等の国のシラミの為めにたたかへ、

それとも君等はシラミ共の

追ひ出しの仕事を

すつかり終つたとでもいふのか、

我々の国では追ひ出しどころか、

我々のところは──シラミそのものなんだ、

いま私の机の上にはロシアの同志、

君たちの優秀な詩人、

ベズイミンスキイと

ジャーロフと

ウートキンと

三人で撮つた写真が飾つてある、

私はいまそれに接吻した、

接吻──それは私の国の

習慣に依る愛情のあらはし方ではない、

東洋では十米突離れて

ペコリと頭をさげるのだ、

貴重な脳味噌の入つた頭を──。

肉体の熱さを伝ひ合ふ握手さへしない、

挨拶にかぎらないだらう、

我々の国ではすべてが形式的で

すべてがまだ伝統的だ、

あゝ、だが間もなく我々若者の手によつて

これらの習慣はなくなるだらう、

しかも新しい形式は始まり

新しい伝統は既に始まつてゐる

我々は目に見えてロシア的になつた、

ザーのロシアではなく

君たちのロシアに──。

ロシア人よ、

私の耳にはドニイブルの水の響はきこえない

きこえるものは我々の国の

凶悪な歌ごゑ叫びごゑだ、

ただ私はドニイブルの水の響を

心臓の中に移したいと思ふ、

私はそのやうにも高い感情を欲してゐる、

君よ、シラミと南京虫のために――、

世界共通の虫のために――、

たがひに自分の立つてゐる土地の上から

共同でこれらの虫を追はう、

ロシア人よ、

君は仕事部屋で手を差出せ

私は私の仕事部屋でそれを握る、

間髪を入れない

同一の感情の手をもつて――、

それはおそらく電気の手だらう、

更に接吻をおくらう、

――人間と鳩とアヒル(註2)の習慣を、

接吻

おゝ、衛生的ではないが

なんと率直な感情表現

もつとも肉体的な挨拶よ、

われわれは東洋流に十米突離れて

たたかつて来たが

いま我々は肉体を打ちつけて争ひ始めた、

我々のところの現実がそれを教へた、

我々はだまつて接近し

君の国の習慣のやうに

我々はかたく手を握り合ふ、

我々もあるひは君等のやうに接吻し合ふだらう、

男同志の、鬚ツラの勝利の接吻

おゝ、なんとそれは素晴らしいことよ。

 

  (註1)ベズイミンスキイの詩『悲劇の夜』の一節、コパーク踊は旧ロシアの農民踊

  (註2)『接吻の習慣のあるものは、人間と斑鳩と家鴨だけだといはれてゐる』ヴォルテール

 

小熊秀雄

小熊秀雄詩集」所収

1935

姉へ

アカシヤの花の匂ひの、

プンと高く風にただよふところに──、

私の姉は不幸な弟のことを考へてゐるでせう

酔つてあばれた

ふしだらであつた弟は

いまピンと体がしまつてゐるのです。

そして弟は考へてゐるのです、

苦労といふものは

どんなに人間を強くするものであるかを。

私は悲しむといふことを忘れました、

そのことこそ

私をいちばん悲しませ、

そのことこそ、私をいちばん勇気づけます

私が何べんも都会へとびだして

何べんも故郷へ舞ひ戻つたとき

姉さん、あなたが夜どほし泣いて

意見をしてくれたことを

はつきりと目に浮びます、

──この子はどうして

 そんなに東京にでゝ行きたいのだらう、

弟はだまつて答へませんでした、

運命とは、私にとつて今では

手の中の一握りのやうに小さなものです。

私はこれをじつと強く、

こいつをにぎりしめます、

私は快感を覚えます、

──私は喰ふためにではなく

  生活のために生きてゐるのです。

といふほどに、今では大胆な言葉を

吐くことができます、

労働のために握りしめられた手を

私はそつと開いてみます、

そこには何物もありません

ただ憎しみの汗をかいてゐるだけです、

御安心下さい、

私は東京に落ちつきました。

 

小熊秀雄

小熊秀雄詩集」所収

1935

無力の夏

コップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》なみなみと注いだアプリコットジュースの冷たさが硝子越しに指を凍えさせるから振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》美しく透んだ氷を選んでいくつも入れなみなみと注いだアプリコットジュースの冷たさが硝子越しに指を凍えさせるから振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度ヤリ直サクチャ》開け放したままの冷蔵庫から漏れる淡いオレンジ色の光を浴びながら美しく透んだ氷を選んでいくつも入れなみなみと注いだアプリコットジュースの冷たさが硝子越しに指を凍えさせるから振り向きざま鳥子に手渡そうとしたコップは割れて鳥子の喉に流れ込むはずだったアプリコットジュースが床にこぼれてしまう《モウ一度・・・・・

 

修復 できない

幾度繰り返しても(いいえ たったいちどだけ)コップが割れて

飛び散る無数の硝子片がマーブルの床に突き刺さる

 

「リピート・プレイをぬけだすには」

遠くから鳥子の声が聞こえる

そう リピート・プレイをぬけだすには わたしはそれが知りたいの

教えて 鳥子

「リピート・プレイをぬけだすには」

アプリコットジュースの洪水に押し流されてゆく鳥子の声がゆらゆら揺れる

「リピート・プレイをぬけだすには すばやく時間を飛び移ること

ターンテーブルはまわり続けているのだから

擦過音を解く針のようにすばやく

絶望が長く引き伸ばされるような落下に耐えて

死んだばかりの魚時間

非ユークリッド幾何学における球面三角形の声時間

それから アフリカ時間」

 

《飛ビ移ル》!

 

アプリコットジュースがわたしの血を滲ませて マーブルの床をゆっくりと流れてゆく 鳥子に手渡そうとしたコップは割れ 飛び散った硝子の破片がわたしの指を傷つけていた 氷のかけらをいくつも入れてからなみなみと注いだアプリコットジュースが 急速に冷えてわたしの指をしびれさせたのだ アプリコットジュースを注ぎ入れたとき 氷たちは触れ合って ピシ、ピシ、と音がしたから わたしはわざとゆっくり長々とジュースの瓶を傾けた 開け放したままの冷蔵庫から淡いオレンジ色の光が漏れてコップの中のアプリコットジュースの中の氷のひとつひとつに影ができるのをぼんやり数えた 冷蔵庫を開けてその瓶を見つけた瞬間 アプリコットジュースに決めたのだった かすかな電気音をたてている冷蔵庫の中にアプリコットジュースが冷やされていることなどすっかり忘れていたのに 床に転がっていた硝子のコップを拾い上げたときは ただ喉が乾いたということばかり思いつめていたのだ
喉が乾いた、と。落雷のように激しく、喉が、乾いた、と・・・・・

 

喉が 乾いたのは 《誰》

 

アプリコットジュースが広がる床に浮島のように光る硝子片を飛び渡って

鳥子が 駆け寄ってくる

素足から流れ出した鳥子の血が アプリコットジュースに混じって

わたしと鳥子のマーブル模様を描いている

 

川口晴美

デルタ」所収

1991

父をひそめて

つま先にタイツをくぐらせる私の前で

母は アラッと声を上げた。

私の足首を引き寄せて、ため息と共に告げる。

「あんたの足の爪、

お父さんにソックリね」

父の足の爪なら覚えている。

年老いた歯にも似たそれは、

立ち尽くめの手仕事を彷彿とさせる。

一日三十人余りの口を覗き込み、

せっせとガーゼを詰めている父。

けれど、この両足を並べてみれば

見慣れた私の爪が顔を出す。

「ホラ、この小指のあたりとか・・・・・。

やっぱり親子ねェ」

感嘆する母に背を向けて

そっとタイツを引き上げる。

タイツは薄いブラウンで、

細かなダイヤの模様が編み込まれている。

 

いつでも切り離してさよならできると信じてきたのに、どこへ体を届けても、私は父を生やし、父のように歩くのだろうか。父の跡を地面に残しては、こっそりとうずくまったのか。湧き出す水のようには、生まれることができなかった。どこからともなく流れてきた、混じり気のない私そのものとして目覚めたい。歩んでいきたい。けれど、水を見つめる私の前につま先がある。紛れもないこの足で、砂利を踏み分けてきたから。

 

この足が、父と私の

何を結びつけるのだろう。

問いかけたい気持ちを背後に追いやり、

背中のジッパーを撫ぜる。

黒いワンピースが

この身をひとつに束ね上げ、

めくれた裾は父の足を投げ出している。

入念に乱れを整えれば、

膝頭は身をすくませて

布の陰に隠れていった。

 

すんなりと父をひそめて、

私は街へ出かけゆく。

新しい水脈を追って

駆けていく。

 

文月悠光

屋根よりも深々と」所収

2013

黄昏

片仮名の ((リ)) と

平仮名の ((り)) が 似ているやうに

昨日と今日は僕には毎日おんなじだ

 

役立たずな夕方よ

一日を終らせるためにだけ

空は夕焼して 金星がある

 

僕は さがしに行かう

新しい夜を別なかげを

 

三日月よりも 風がいい

 

立原道造

草稿詩篇」所収

1933

黄色い翅

脈拍をおしはかりながら

心臓がゆっくりとはばたき始めた。

私が驚いた隙に心臓は脈を速め、

ひといきに舞い上がる。

振り仰げば、それは一匹の蝶の姿をしていた。

鱗粉をまとって黄色に輝く翅、

黒々と目立つ複眼。

口もとには細い管が端整なうずを巻いていた。

 

「十九年も一緒だったのに、自分の心臓が蝶とは気づかなかった」

蝶は羽ばたきの速度をゆるめ、私の鼻先で触角をかしげる。

血がみなぎっていたはずの左胸に手を当てると、

そこは冷たい空洞と化し、恐ろしいほどに寡黙だった。

まつげの奥から蝶を見つめて、まばたきで話をしたい。まばたきは、はばたきと同じで、よろこぶ翅の所作だから、蝶は私のまつげが気に入ったよう。

(蜜を口いっぱいに含みながら、わたしたちは花々をあとにする。わたしたちがいないとき、花は咲かない、咲いてはならない)

 

口先を研ぎ、蝶はしたたかに蜜を吸い上げる。

花から飛び立つごとに、その影を大きくして。

やがて蝶の航路が起伏を帯び、拍子をとりはじめる。

私の鼓動のしらべだろうか、

からだのそとで脈を奏でる蝶のかげが濃い。

左胸をひらいてみせると

蝶は待ちわびていたように身をひるがえし、

左胸へ舞い降りた。

蜜があたたかく染みわたれば

花の香に包まれて、唇がゆるむ。

鼓動と共に

私の口からことばがこぼれ出る。

 

内から響き始める拍動に

黄色い翅が舞い立ち、

連なっていく。

 

文月悠光

屋根よりも深々と」所収

2013

たそがれの美少女

紫の酒をたうべて醉ひしれぬ春の都は

夜は來る深き夜はいと妖艷に

うるはしき玉の如き燈火は點ず

辻々にゆきもどる若人のため

 

まだ殘る日のかげに遊べるあり

美しの少女あまた打群れて

その派手やかに着かざる衣裳は

人目を眩ず薄明り亂して

 

玻璃いろの人形めきたる

榮ちやんもたえまなく銀色のまりをつき

お手玉に燦爛と耽る子もあり

 

にほひよき薄明り美少女の群をたたへて

ただ消えゆくばかりなり春の夜に

時に燈火は叫ぶおごそかに「少女よ去れ」と

 

村山槐多

1919

 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。

 そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 

 ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。

 その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。

 むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。

 これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。

 また言ふ。――花を愛すべし。實なほ喰ひつべし。

 なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。

 自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。齡の效かもしれない。

 

 藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。

 これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。

 それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。

 かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。

 

 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。

 

 だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。

 

 詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。

 

 善い詩人は詩をかざらず。

 まことの農夫は田に溺れず。

 

 これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。

 なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

 

 ──藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。

 藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に關はる。

 その妖怪を逃がすな。

 それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。

 何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。

茨城縣イソハマにて

 

山村暮鳥

」序文より

1925

雲にはさまざまの形があり、それを眺めてゐると、眺めてゐた時間が溶け合つて行く。

はじめ私はあの雲といふものが、何かのシンボルで獣や霊魂の影だと想つた。

ナポレオンの顔に似た雲を見つけたり、天狗の嘴に似た雲を見つけたことがある。石榴の樹の上に雲は流れた。

雲は全て地図で、風のために絶えず変化してゆく嘆きでもあつた。金色に輝く夏の夕べの雲、濁つてためらふ秋の真昼の雲、それを眺めて眺めてあきなかつた中学生の私がある。

何時からともなく雲を眺める習慣が止んだ。私の頭上に青空があることさへ忘れ、はしたない歳月を迷つた。けれども雲はやつぱし絶えず流れつづけてゐた。そして今、私が再び雲に見入れば、雲は昔ながらの、雲のつづきだ。

 

原民喜

原民喜詩集」所収

1951