姉へ

アカシヤの花の匂ひの、

プンと高く風にただよふところに──、

私の姉は不幸な弟のことを考へてゐるでせう

酔つてあばれた

ふしだらであつた弟は

いまピンと体がしまつてゐるのです。

そして弟は考へてゐるのです、

苦労といふものは

どんなに人間を強くするものであるかを。

私は悲しむといふことを忘れました、

そのことこそ

私をいちばん悲しませ、

そのことこそ、私をいちばん勇気づけます

私が何べんも都会へとびだして

何べんも故郷へ舞ひ戻つたとき

姉さん、あなたが夜どほし泣いて

意見をしてくれたことを

はつきりと目に浮びます、

──この子はどうして

 そんなに東京にでゝ行きたいのだらう、

弟はだまつて答へませんでした、

運命とは、私にとつて今では

手の中の一握りのやうに小さなものです。

私はこれをじつと強く、

こいつをにぎりしめます、

私は快感を覚えます、

──私は喰ふためにではなく

  生活のために生きてゐるのです。

といふほどに、今では大胆な言葉を

吐くことができます、

労働のために握りしめられた手を

私はそつと開いてみます、

そこには何物もありません

ただ憎しみの汗をかいてゐるだけです、

御安心下さい、

私は東京に落ちつきました。

 

小熊秀雄

小熊秀雄詩集」所収

1935

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