釜底に沸沸ゆれる鯨の大脳よ。
けだるく油脂の臭ひはのぼり。
しだいに造花は鎔けてゆく。
曾つてあれら軟柔な皺襞のなかに
青い心象が燃えてゐたのだ。
古い記憶が生きてゐたのだ。
脳・・・・・・
茫乎としてああ涯しもない、
私は遠い過去世を思ふ。
混沌のなかに私は消える。
Heave ho! Heave ho!
斑に夕日をうけて人と機械は、
感覚のむかうにちらちら動く。
石川善助
「亜寒帯」所収
1936
釜底に沸沸ゆれる鯨の大脳よ。
けだるく油脂の臭ひはのぼり。
しだいに造花は鎔けてゆく。
曾つてあれら軟柔な皺襞のなかに
青い心象が燃えてゐたのだ。
古い記憶が生きてゐたのだ。
脳・・・・・・
茫乎としてああ涯しもない、
私は遠い過去世を思ふ。
混沌のなかに私は消える。
Heave ho! Heave ho!
斑に夕日をうけて人と機械は、
感覚のむかうにちらちら動く。
石川善助
「亜寒帯」所収
1936
Sometimes the mist overhangs my path,
And blackening clouds about me cling;
But, oh, I have a magic way
To turn the gloom to cheerful day—
I softly sing.
And if the way grows darker still,
Shadowed by Sorrow’s somber wing,
With glad defiance in my throat,
I pierce the darkness with a note,
And sing, and sing.
I brood not over the broken past,
Nor dread whatever time may bring;
No nights are dark, no days are long,
While in my heart there swells a song,
And I can sing.
James Weldon Johnson
From “Fifty years & Other Poems”
1917
白い繭を破つて
生れ出た蛾のやうに
俺には
子供の成長が
実に不思議に思はれる
美しいもの──
とも考へる
俺は林の中に居を朴した
俺が老いるのは
子供が育つことだ
それにはなんの不思議もない
風が来て
芙蓉の花が揺れる
俺は旅で少女と識つた
古いことだ 昔のはなしだ
少女は俺の妻になつた
その妻が
今 柱のそばに立つてゐる
子を抱いて 少し口もとで笑つて
風が吹く
どのあたりから?
旅の空を はるかなものを
俺はもう忘れてしまつたのか
津村信夫
「或る遍歴から」所収
1944
指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ、
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女は小さな扇をひらいた。
津村信夫
「愛する神のうた」所収
1935
私はもう歌なぞ歌わない
誰が歌なぞ歌うものか
みんな歌なぞ聴いてはいない
聴いてるようなふりだけはする
みんなただ冷たい心を持っていて
歌なぞどうだったってかまわないのだ
それなのに聴いてるようなふりはする
そして盛んに拍手を送る
拍手を送るからもう一つ歌おうとすると
もう沢山といった顔
私はもう歌なぞ歌わない
こんな御都合な世の中に歌なぞ歌わない
中原中也
1935
まだ明けぬ夜のしじまに
彼は暗い海を指差し
沖へゆけ
と一言云った
彼はそれからだんまりだ
眼に小さな光を湛えて
彼は夜の灯台となった
沖へゆけ
海は荒れている
舟は不安定に波間を上下した
舟出に嵐
死にゆく者たちの為めにあるような
素晴らしい出航のとき
舟ははしる
波から波へそして沖へ
ランタンの灯はあかあかと
暗い夜風に瞬いて消えた
おお
この暗闇
すべてを
この世の凡そすべてを
呑み込んでなお余りある引力の不思議
セイルは破れ
舵は朽ち
しかし舟の突端は沖を目指す
夜明けだ
水浸しの部屋で
模造船を毀す戯れごと
沖へ
沖へゆけ
ベッドのうえに眠るセイラー
きれいに浄水された水槽
一呼吸に死んでゆく細胞
歪んで視えるテレヴィジョン
あぶくを吐き出し乍ら伝えられる朝のニュース
Tsunami、
と聴いた
まるでそれ自体が一体の生物であるかのような
死骸の街
戸を開けて
沖はまだか
海は天にあるのか地にあるのか
ふやけた足裏では判らない
彼は知っていた筈だ灯台
うつくしい潮の満ち引き
あらわに転がるは
陽の強さに黒く瓦解する
日常
そして
目指されぬ標となった
わたしたちの骨のざわめき
つぎつぎと透き通って消えてゆく
沖へと向かう舟の夢 夢
波音・・・・・、
小林坩堝
「でらしね」所収
2013
地下鉄は、都市の深奥を貫いて往く。
おれはドアのガラス越しに、
なにか、きらめくのを視た。
星屑のようなそれは、
闇のなかにいくつも視えた。
瞳だ、
下車すべき駅を喪失した、
乗車すべき駅を喪失した、たくさんの瞳、
が
濡れてこちらを視ているのだ。
おれはレールの軌道のうえ、
はしる列車の振動のうえ、
瞳は薄闇のなかで、呼んでいる、
ちかちかと瞬いて、
呼んでいる、呼んでいる、・・・・・・。
カーブを曲がると、プラットフォーム、
人びとの流れに身を任せ、
あかるい雑踏に佇むおれの、
胸に一輪、薔薇が枯れて散ってゆく。
季節は萌えず修辞され、
書きかえられない思い出を、
うつくしく飾るために造られる。
都市はいつも隠している。
鉄骨をご覧、アスファルトの舗道をご覧、
おまえのライトで照らしてご覧、
生白い足や、もの言わぬ唇、焼け焦げの痕、・・・・。
おれの、否、おれたちの足もとでくすぶっている、
にがい煙草の煙のようなもの、
おれたちが去れば、
ぬるい夜に消えてゆくだろう。
道路脇に手向けられている、
薔薇の花束が、視えるか。
死人に薔薇など似合わぬと、
おまえは暗く微笑んだ。
渦のような夢のなかで、おれはきみの名を呼んだ。
赤い赤いワンピース、
きみはなにか、巨きな影のようなものに包まれて、
おれに言葉を呉れない。
黒光りするまなざしが、
おれを知らない、と、語った。
おれはきみの名を呼んだ。
カーテンを閉ざすように、
きみは目を瞑り、影と消えた。
薔薇の似合うそいつのことを、
おれたちは知っているような気がする。
おれたちは忘れているような気がする。
けれども、薔薇は咲いたら枯れるだけ、
おれたち忘れて歩くだけ。
そして別れて背中を向けて、
都市の街路に散ってゆくだけ。
小林坩堝
「でらしね」所収
2013