髪を洗へば紫の
小草のまへに色みえて
足をあぐれば花鳥の
われに随したがふ風情あり
目にながむれば彩雲の
まきてはひらく絵巻物
手にとる酒は美酒の
若き愁をたゝふめり
耳をたつれば歌神の
きたりて玉の簫を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ
あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな
島崎藤村
「若菜集」所収
1897
人妻をしたへる男の山に登り其
女の家を望み見てうたへるうた
誰かとゞめん旅人の
あすは雲間に隠るゝを
誰か聞くらん旅人の
あすは別れと告げましを
清き恋とや片し貝
われのみものを思ふより
恋はあふれて濁るとも
君に涙をかけましを
人妻恋ふる悲しさを
君がなさけに知りもせば
せめてはわれを罪人と
呼びたまふこそうれしけれ
あやめもしらぬ憂しや身は
くるしきこひの牢獄より
罪の鞭責をのがれいで
こひて死なんと思ふなり
誰かは花をたづねざる
誰かは色彩に迷はざる
誰かは前にさける見て
花を摘まんと思はざる
恋の花にも戯るゝ
嫉妬の蝶の身ぞつらき
二つの羽もをれ/\て
翼の色はあせにけり
人の命を春の夜の
夢といふこそうれしけれ
夢よりもいや/\深き
われに思ひのあるものを
梅の花さくころほひは
蓮さかばやと思ひわび
蓮の花さくころほひは
萩さかばやと思ふかな
待つまも早く秋は来て
わが踏む道に萩さけど
濁りて待てる吾恋は
清き怨となりにけり
島崎藤村
「若菜集」所収
1897
十五の少年
東京で靴磨きをしてゐた
うまくゆかないのであらう
職を求めて大阪へ行つた
大阪にも職はなかつた
東京へ戻るため汽車に乗つた
その汽車の中で少年は服毒した
苦しみだしたので助けられた
遺書があつた
遺書にはかう書いてあつた
もうこれ以上は悪いことをしなければ
生きてゆかれません
高橋元吉
「草裡」所収
1944
この夏行脚してめぐりありけるとき、或朝ふと
おもしろき草花の咲けるところに出でぬ。花を
眺むるに餘念なき時、わが眼に入れるものあり、
これ他の風流漢ならずして一蚯蚓なり、おかし
きことありければ記しとめぬ。
わらじのひものゆるくなりぬ、
まだあさまだき日も高からかに、
ゆうべの夢のまださめやらで、
いそがしきかな吾が心、さても雲水の
身には恥かし夢の跡。
つぶやきながら結び果てゝ立上り、
歩むとすれば、いぶかしきかな、
われを留むる、今を盛りの草の花、
わが魂は先づ打ち入りて、物こそ忘れめ、
この花だにあらばうちもえ死なむ。
そこ這ふは誰ぞ、わが花の下を、
答へはあらず、はひまわる、
わが花盗む心なりや、おのれくせもの、
思はずこぶしを打ち擧げて
うたんとすれば、「やよしばし。
「おのれ地下に棲みなれて
花のあぢ知るものならず、
今朝わが家を立出でゝより、
あさひのあつさに照らされて、
今唯だ歸らん家を求むるのみ。
「おのれは生れながらにめしひたり、
いづこをば家と定むるよしもなし。
朝出る家は夕べかへる家ならず、
花の下にもいばらの下にも
わが身はえらまず宿るなり。
「おのれ生れながらに鼻あらず、
人のむさしといふところをおのれは知らず、
人のちりあくた捨つるところに
われは極樂の露を吸ふ、
こゝより樂しきところふらず。
「きのふあるを知らず
あすあるをあげつらはず、
夜こそ物は樂しけれ、
草の根に宿借りて
歌とは知らず歌うたふ。」
やよやよみゝず説くことを止めて
おのがほとりに仇あるを見よ。
智慧者のほまれ世に高き
蟻こそ來たれ、近づきけれ、
心せよ、いましが家にゆるぎ行きぬ。
「君よわが身は仇を見ず、
さはいへあつさの堪へがたきに、
いざかへんなん、わが家に、
そこには仇も來らまじ、安らかに、
またひとねむり貪らん。」
そのこといまだ終らぬに、
かしこき仇は早や背に上れり、
こゝを先途と飛び躍る、
いきほひ猛し、あな見事、
仇は土にぞうちつけらる。
あな笑止や小兵者、
今は心も強しいざまからむ。
うちまはる花の下、
惜しやいづこも土かたし、
入るべき穴のなきをいかん。
またもや仇の來らぬうちと、
心せくさましほらしや、
かなたに迷ひ、こなたに惑ひ、
ゆきてはかへり、かへりては行く、
まだ歸るべき宿はなし。
やがて痍もおちつきし
敵はふたゝびまとひつく。
こゝぞと身を振り跳ねをどれば、
もろくも再びはね落され、
こなたを向きて後退さる。
二つ三つ四ついつしかに、敵の數の、
やうやく多くなりけらし、
こなたは未だ家あらず、
敵の陣は落ちなく布きて
こたびこそはと勇むつはもの。
疲れやしけむ立留まり、
こゝをいづこと打ち案ず。
いまを機會ぞ、かゝれと敵は
むらがり寄るをあはれ悟らず、
たちまち背には二つ三つ。
振り拂ひて行かんとすれば、
またも寄せ來る新手のつはもの、
蹈み止りて戦はんとすれば
寄手は雲霞のごとく集りて、
幾度跳ねても拂ひつくせず。
あさひの高くなるまゝに、
つちのかわきはいやまして、
のどをうるほす露あらず、
悲しやはらばふ身にしあれば
あつさこよのふ堪へがたし。
受けゝる手きずのいたみも
たゝかふごとになやみを増しぬ。
今は拂ふに由もなし、
爲すまゝにせよ、させて見む、
小兵奴らがわが背にむらがり登れかし。
得たりと敵は馳せ登り、
たちまちに背を蓋ふほど、
くるしや許せと叫ぶとすれど、
聲なき身をばいかにせむ、
せむ術なくてたをれしまゝ。
おどろきあきれて手を差し伸れば
パッと散り行く百千の蟻。
はや事果しかあはれなる、
先に聞し物語に心奪はれて、
救得させず死なしけり。
ねむごろに土かきあげ、
塵にかへれとほふむりぬ。
うらむなよ、凡そ生とし生けるもの
いづれか塵にかへらざらん、
高きも卑きもこれを免れじ。
起き上ればこのかなしさを見ぬ振に、
前にも増せる花の色香。
汝もいつしか散らざらむ、
散るときに思ひ合せよこの世には
いづれ絶えせぬ命ならめや。
北村透谷
1894
いとけなき少年の日より
私は常に魂のありかを風に求めてゐた
空にそよぐ葉つぱから、初めて人間の智慧を拾うてから
私は風と話をする心をもつた
今、私は母と散歩に出たある夕暮れを思ひ出す
道のほとりに風に散った木の葉より
秘められた人間の悲哀を拾うたことを思ひ出す
その木の葉を掌にとつて
「風はどこからも生れやしない
風は土に萌え出た人間の愛葉脈さみしい草の愛木の葉のような心に生れて
どこにも住家なくまづしい灰色の寝台をそこここにおくきりなのだ」
さう呟いた憂欝な日から私は風と話をした
何時であつたか
「生れたのは嘘だ、信ずるのも嘘だ、さういふ気がします」
ひとり私が祈禱の夜だった、雨と太陽に、日に焼け痩せた顔を見せて、言つたことがあるそれも忘れた日であつた
「未だお考へはつきませんか」と
庭の椅子の本のペーヂに面ふせてゐたとき
風は樫の葉の上から、私の首に手をかけて言つた
「否」私はさう言つて、また本を読んだ
結局本はさみしさの泉で
さういふ風の話のみが、私を生かして来た
私がいつも黙つてゐると
風はさみしく其処に坐つてゐるのを見る
夕暮れ首をすぼめて
高い空の方から、小鳥や雲とたはむれる姿とも思へず
帰つてゆく風は、窓辺に来て沈んでゐる
「ご飯は?」とその寒げな姿に言ふ
「腹が空いても菜つ葉のやうなさみしい空気きりなんです」
「草の根のやうなものを嚙み水のやうに下るのも我慢するのです」
「痩せましたねお貰ひさん!あたたかにしておいでお貰ひさん」
さうも言はれさうだ
夕暮れ門口に立つた、思ひやり深い家婦の瞳に
痩せた魂は何処まで吹かれてゆくのだらう
風もそれは知らないと言ふ
生れればもう吹かれるそれだけが真実だと言ふ咽喉も痛い悲しい思ひを呑み下して血とするきりだといふ
愛は悲しみで木の葉が真実を知つてゐるきりだといふ
立ち上る煙や木の葉が美しかつた朝は
あなたのお祈りをしばし自然の小さい者にかけて下さい
私はどつかでよろこびますと言ふ
風はさう言つて一層さびしい顔をくもらせる
おお私は人間の世のことは風にたづねまい
風は木の葉に自分は窓に共に語らう
春もま近いきさらぎとなつた
風よ野に行かう草原に日の照る所に
せめて君や草や私達三人してお互いにしんみりと話し慰め合ふ
今日はあたたかい土曜の午後だ
春あさい丘にまろくすわつて話でもきかしておくれ
草木芽ぐむ春を小鳥さへづる春を見も知らぬ処女の胸に思ひわく春を
たくさんの慰めを詩として私に与へておくれ
萩原恭次郎
1919
隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう――
生活の中で食うと言う事が満足でなかったら
描いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいものだと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。
両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか!
いつまでも人形を抱いて沈黙っている私ではない。
お腹がすいても
職がなくっても
ウヲオ! と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて悶死したって
ビクともする大地ではないんです
後から後から
彼等は健康な砲丸を用意している。
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが
私の知らない世間は何とまあ
ピアノのように軽やかに美しいのでしょう。
そこで始めて
神様コンチクショウと吐鳴りたくなります。
林芙美子
「蒼馬を見たり」所収
1929
泥酔の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も痛々しいところに噛みついてくる。夜に於いての恥ずかしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の髄まで紫色に変色する。げに宿酔の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう。我等の生涯に於て、あれらの忌々しい悔恨を繰返さないやうに、断じて私自身を警戒するであらう。と彼らは腹立たしく決心する。けれどもその日の夕刻が来て、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤独の寂しさが、彼らを場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、酔った幸福を眺めさせる。思へそこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は真に生甲斐のある、ただそればかりが真理であるところの、唯一の新しい生活を知ったと感ずるであらう。しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。げにかくの如きは、あの幸福な飲んだくれの生活ではない。それこそは我等「詩人」の不幸な生活である。ああ泥酔と悔恨と、悔恨と泥酔と。いかに悩ましき人生の雨景を蹌踉することよ。
萩原朔太郎
「宿命」所収
1939
あゝ美しきかな
汝の全體
先づ吾を戰慄せしむるは
汝の胸上なる二つの肉感的なる球なり
美しくとがりたる乳房なり
汝の腕なり
そは鍾乳石にも比すべきかまた
汝の首なりまた
汝の長く肥りたる兩足の交錯なり
そこにうねれる凸凹の美しさよ
あでやかなる肉はまた汝の□□(1)に浮く
そこに紫の□(2)の威あるかな
あゝ美しきかな
女の裸體
われはむしろ「□□□」(3)の名を受けて世界中の□□□(4)をのぞきまはらん
ピカソ展覽會のカタログを見て
ピカソの戀をおぼえそめけり
ムツシユーピカソ――
ピカソさん
あなたの畫に僕はすつかり
崇拜を捧げます
私もあなたの如く
立派に描きたう思つて居る
日本のゑかきの
新兵です
□は当時の検閲による伏字。それぞれ下記の言葉が入っていたと推定される
注 1)谷間、2)毛、3)無頼漢、4)モデル
村山槐多
1919
草原の斜めに傾いた風が
まばらな樹々と石と岩とところどころの
土のうえに夕陽をおいてはどけてゆく
二人をかこんでいる
風が
東から吹いてくる少しばかり潮と鳥の
匂いをさせながら
二人の手と手に見えない花輪をかけてゆく
一九七八年一月二十八日
古い日付をもつ紙片が
風にめくられて(頁がとぶように)
失われる
朝、上着の水滴をはらいながら
雨あがりのひとけない坂道をのぼってゆく
ツツジの緑の小径をぬけると
黒い塀の一軒家があって
おはようございます
ガラスペンをください
竹の軸、さもなければ
木の軸があります
まっすぐのペン尖、さもなければ
蕪菁のペン尖があります
(ぷっくりとふくらんだ蕪菁のペン尖)
失われた紙片のかわりにゆっくりと文字を
書いてみたいのです
さんと出会ったのも雨あがりだった(だろうか)
洋書の紙とインクがすこし黴くさく匂っていた
ほそい鉛筆のようだったさん
それからしばらくして私たちは再会した
渡仏するまでの蜜の様な
濃密な
そして私は眠っていたようだ
ジンチョウゲの
悩ましいかおり、さまざまな草の
いきれ
人
でなしだから
脚や腕をおおきくふって歩いてゆく
風がふくたびに
水滴まみれになる
ねえ、さん
いつからいっしょにいるんだい
さみしい蛇崩の坂道
蕪菁のペン尖をつけた木軸に光が射しこんで
ダヴィンチが壁の剥げた漆喰に貴婦人を透視したように
その杢のひとつひとつの屈折に
私の夢のかけらがあらわれては消えてゆく
泡杢のつがって泳ぐウヲの黄金
鳥瞰図法の
アヲ
孔雀杢の微風と愛撫にたふたふ揺蕩ふ黒髪
虎杢の(といっても焔のようにすこしずつ乱れる)
うしろから抱く臀
玉杢の
瑠璃も玻璃もいのちの泡も
沸騰する
射干
玉
そして私は眠っていたようだ
鬢からいいかおりのするお嬢さん、こちらは黄楊、さもなければ
櫻、さもなければ楓、欅、黒柿
やわらかい木は持つとなじみがいいですし
かたい木はつかえばつかうほどあじわいがでます
アブラ紙につつまれた
慎重にえらんだ木軸とガラスの蕪菁のかすかに蒼い
ペン尖をだいじに握って
水滴をはらい
またはらいながら
私は帰り道をいそいだのだ、いつの日にか
私はゆっくりと文字を書くだろう
古い紙片のように
その文字もまた
風にめくられて(頁がとぶように)
失われる
ねえ、さん、雨はもうとうにあがったね
緑は
あざやかだけれど、スズメやヒバリも鳴きはじめているけれど
(まがまがしい蛇崩のまがり道)
どうしてもこの空洞から抜けでることができないよ
死にたくなるような朝
まばゆいばかりの
朝吹亮二
「まばゆいばかりの」所収
2008