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ラッキョウの恩返し

「ラッキョウは苦手なんです」「そうかい 僕は好きだよ」
こんなたわいない会話を誰かが聞いていたのだろうか
次の日からラッキョウに悩まされることになった
パック入りのラッキョウ漬を新聞の勧誘員が持参しクリーニング屋の開店五周年記念でいただき 隣に越してきた人が御挨拶として持ってきた
さらにバケツ一杯のラッキョウをひっさげて汗をふきふき現れた男がいる 「昔お父さまにお世話になった者です」と言ってその日から毎日毎日バケツ一杯持ってきた 父はここにいませんからと辞退しても「いやほんの気持ちです」とラッキョウ男は言い 困って居留守を使うと次の日から黙ってドアの外へ置いていくようになった
押入れ 洋服ダンス ゲタ箱 浴槽といたる所にラッキョウがあふれる 先の友人に贈るともうお前とは絶交だとつっかえされ動物園に電話すればいい加減にしろと怒られた おいしいラッキョウあげますと貼り紙を出しても誰も引き取ってはくれず こうしてる間にもたまる一方で古いものは腐りつつある
思いあまってポリ袋に入れゴミ収集日に出すとラッキョウはゴミではないと言う
背中にかついで山を越え谷を越え むこうの山へ捨ててくると私より早く玄関に帰りついている
そうしてようやくわかってきた
父は恐るべき偏食家で ラッキョウが一番嫌いだ 第一父も私も人にうらまれこそすれ恩を与えるわけがない
ラッキョウの恩返しとは裏返しのでんぐり返しだ
そういう事ならと肚を決め ハチマキをしめてラッキョラッキョウと売り歩くが買ってくれる人はない 型に入れ凍らせてアイスキャンデーのようにすると女の子が数人寄ってきたが 母親どもがかなきり声でよび戻した
その顔めがけラッキョウをひとつかみ投げつけると 追っかけてきて その三倍ほどを私に浴びせた
乳鉢ですり メリケン粉と芥子をまぜて丸薬をつくり 一人暮らしの老人たちに万病にきくと配って歩くと 数日たっておかげさまで元気になりましたとバケツ十杯のラッキョウを持ってきた
寝たきり老人の家へ行き ぽっくりいかせる薬ですと嫁に渡すと 翌日晴れ晴れとバケツ二十杯持ってきた
ラッキョウは部屋中あふれ 小山を成し すごい臭いだ 万策つきてぼんやりしてると シャリシャリシャリと小気味良い音がする 何だろうと見回すと壁の時計が長短二本の腕をのばしラッキョウを摑んでは口へ摑んでは口へ シャリシャリシャリあっという間にひと山たいらげた
そもそもこの時計はどうして動いていたのだろう ゼンマイでもない電池でもない
時間ばかり食べていたんじゃさぞひもじかったろう同情する間にふた山
いや時間は食物ではなく排泄物かもしれないぞ その証拠にと考える間にまたひと山
その証拠に私の心臓もシャリシャリシャリと小気味いい音をたててあしたのラッキョウの方を向いているではないか

 

平田俊子

ラッキョウの恩返し」所収

1984

香水夜話

 まつくらな部屋のなかにひとりの女がたつてゐた。

 部屋はほのあたたかく、うすい霧でもただよつてゐるやうで、もやもやとして、いかにもかろく、しかも何物かの息かがさしひきするやうに、やはらかなおもみにしづまりかへつてゐる。

 をんなは、すはだかである。ひとつのきれも肌にはつけてゐない。ひとつの裝飾品も身につけてはゐない。
 髮はときながしたままである。油もくしもつけてはゐない。

 顏にも手にも足にも、からだのすべてに何ひとつとして色づけるもののかげもないのである。

 女は、いきたまま、まつたくの生地のままの姿である。肌の毛あなには闇がすひこまれてゐる。べにいろの爪には闇の舌がべろべろとさはつてゐる。ふくよかなももには、しどけない闇のうづまきがゆるくながれてゐる。

 まつしろい女のからだは、あつたかい大きな花のやうにわらつてゐる。手もわらつてゐる。足の指もわらつてゐる。しろくけぶるやうな女のまるいからだは、むらさきのやみのなかに、うごくともなくさやさやとおよいで、かすかな吐息をはいてゐる。

 女は白いふくろふだ。その足はしろいつばめだ。

 闇は、きり、きり、きり、きりと底へしづみ、女の赤いくちびるは、白く、あをじろく、こころよいふるへをかみしめて、ほそい影をはいてゐる。

 女の眼は、朝の蛇のやうにうす赤く黑ずんできて、いつぴきの蝙蝠がにげだした。

 女のからだは水蛭のやうによぢれて、はては部屋いつぱいにのびひろがらうとしてゐる。

 あへぎ、あへぎ、息がたえだえにならうとしてゐる。

 このとき、女の左の乳房にリラの花の香水を一滴たらす。香水のにほひは、さくらのつぼみのやうなぽつちりとした乳房にくひついて、こゑをあげてゐる。

 

大手拓次

1934

一度だけの人生

目をさますと虫がないている

もう秋だと夜明けの暗さのなかで僕は思う

 

誰にもくりかえされる感慨

くりかえされる事実

 

僕にとっては四十二回くりかえされる秋

ああ くりかえされる人生

 

僕の人生は僕にとっては一度だけの人生だが

人生というものは秋に虫の声というようなくりかえしではないか

 

それでもいい

くりかえされる感慨は軽くても事実は軽くない

 

くりかえしの人生を自分だけの人生にすること

するようにと無理に努めることなく自ずとそうなっているようにすること

 

自分に言いきかす言葉の しかし 軽いことよ

陳腐とはいえ不変の感慨の方がまだ重い

 

その重さを胸の上に感じながら僕は呟く

くりかえされる人生のなかの一度だけの人生

 

薄暗い空がだんだん明るくなる

物音とともに虫の声が聞こえなくなる

 

虫の声が消えると

くりかえされる人生のくりかえされる一日がはじまる

 

高見順

1950

Suppose An Eyes

Suppose it is within a gate which open is open at the hour of closing summer that is to say it is so.

All the seats are needing blackening. A white dress is in sign. A soldier a real soldier has a worn lace a worn lace of different sizes that is to say if he can read, if he can read he is a size to show shutting up twenty-four.
Go red go red, laugh white.

Suppose a collapse in rubbed purr, in rubbed purr get.

Little sales ladies little sales ladies little saddles of mutton.

Little sales of leather and such beautiful beautiful, beautiful beautiful.

 

Gertrude Stein

From “Tender Buttons”

1914

ひょっとこ面

 納豆と豆腐の味噌汁の朝食を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に一日机に寄りかゝったまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなってしまひながら「俺の楽隊は何処へ行った」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまったことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐった夢を見て床を出た。雨が降ってゐた。そして、酔ってもぎ取って来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであった。このリンには、そこへつるした日からうっかりしては二度位ひづつ頭をぶっつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん、畳のやけこげ。少しかけてはいるが急須と茶わんが茶ぶ台にのってゐる。しぶきが吹きこんで一日中縁側は湿っけ、時折り雨の中に電車の走ってゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになったやうな気持になって坐ってゐた。そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであった。

 

尾形亀之助

障子のある家」所収

1930

障子のある家(後記)

泉ちゃんと猟坊へ

 

 元気ですか。元気でないなら私のまねをしてゐなくなって欲しいやうな気がする。だが、お前達は元気でゐるのだらう。元気ならお前たちはひとりで大きくなるのだ。私のゐるゐないは、どんなに私の頬の両側にお前達の頬ぺたをくっつけてゐたって同じことなのだ。お前達の一人々々があって私があることにしかならないのだ。

 泉ちゃんは女の大人になるだらうし、猟坊は男の大人になるのだ。それは、お前達にとってかなり面白い試みにちがひない。それだけでよいのだ。私はお前達二人が姉弟だなどといふことを教えてゐるのではない。――先頭に、お祖父さんが歩いてゐる。と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが歩いてゐる。それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを母が、それから二十幾年のところを私が、その後二十幾年のところを泉ちゃんが、それから三年後を猟坊がといふ風に歩いてゐる。これは縦だ。お互の距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合っては事実歩けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犠牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始ったことなのか、これは明らかに錯誤だ。幾つかの無責任な仮説がかさなりあって出来た悲劇だ。

 ――考へてもみるがよい。時間といふものを「日」一つの単位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得やうではないか。それは、「日」といふものには少しも経過がない――と。例へば、二三日前まで咲いてゐなかった庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映画に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映写されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無数の春夏秋冬も、太陽も戦争も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持ってゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。――

 又、さきに泉ちゃんは女の大人猟坊は男の大人になると私は言った。が、泉ちゃんが男の大人に、猟坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の児を生んだのが男になったり男が女になってしまったりすることはたしかに面白い。親子の関係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦関係、恋愛、亦々同じ。そのいづれもが腐縁の飾称みたいなもの、相手がいやになったら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。

 

父と母へ

 

 さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといってはどうにもならないことなのでせう。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいったい何なのでせう。何をしに生れて来るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るといふことは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる為にとでもいふことなのでせうか。だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。又、「親子」といふものが、あまり特種関係に置かれてゐることもわるいのでせう。――私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ決して出来ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言って来たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。

 

尾形亀之助

障子のある家」後書きより

1930

月に吠える(序)

萩原君。

 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縦しそこにそれぞれ天稟の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の清しさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理会する。さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奥底に直接に互の手を触れ得るたつた一つの尊いものである。

 

 私は君をよく知つてゐる。さうして室生君を。さうして君達の詩とその詩の生ひたちとをよく知つてゐる。『朱欒』のむかしから親しく君達は私に君達の心を開いて呉れた。いい意味に於て其後もわれわれの心の交流は常住新鮮であつた。恐らく今後に於ても。それは廻り澄む三つの独楽が今や将に相触れむとする刹那の静謐である。そこには限りの知られぬをののきがある。無論三つの生命は確実に三つの据りを保つてゐなければならぬ。然るのちにそれぞれ澄みきるのである。微妙な接吻がそののちに来る。同じ単純と誠実とを以て。而も互の動悸を聴きわけるほどの澄徹さを以て。幸に君達の生命も玲瓏乎としてゐる。

 

 室生君と同じく君も亦生れた詩人の一人である事は誰も否むわけにはゆくまい。私は信ずる。さうして君の異常な神経と感情の所有者である事も。譬へばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、正しく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持つてゐるからだ。

 然しこの剃刀は幾分君の好奇な趣味性に匂づけられてゐる事もほんとうである。時には安らかにそれで以て君は君の薄い髯を当る。

 

 清純な凄さ、それは君の詩を読むものの誰しも認め得る特色であらう。然しそれは室生君の云ふ通り、ポオやボオドレエルの凄さとは違ふ。君は寂しい、君は正直で、清楚で、透明で、もつと細かにぴちぴち動く。少くとも彼等の絶望的な暗さや頽廃した幻覚の魔睡は無い。宛然凉しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきである。その鏡に映るものは真実である。そして其処には玻璃製の上品な市街や青空やが映る。さうして恐る可き殺人事件が突如として映つたり、素敵に気の利いた探偵が走つたりする。

 

 君の気稟は又譬へば地面に直角に立つ一本の竹である。その細い幹は鮮かな青緑で、その葉は華奢でこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直観する。而も此竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根の細かな繊毛のその岐れの殆ど有るか無きかの毛の尖のイルミネエション、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の尖端にかじりついて泣く男、それは病気の朔太郎である。それは君も認めてゐる。

 

「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷はそこから来くる。さうしてその葉その根の尖まで光り出す。

 

 君の霊魂は私の知つてゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身が一顆小砂に擦られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身であり、生身から滴したたらす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。

 

 外面的に見た君も極めて痩せて尖つてゐる。さうしてその四肢が常に鋭角に動く、まさしく竹の感覚である。而も突如として電流体の感情が頭から足の爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。

 

 潔癖で我儘なお坊つちやんで(この点は私とよく似てゐる)その癖寂しがりの、いつも白い神経を露はに顫へさしてゐる人だ。それは電流の来ぬ前の電球の硝子の中の顫へてやまぬ竹の線である。

 

 君の電流体の感情はあらゆる液体を固体に凝結せずんばやまない。竹の葉の水気が集つて一滴の露となり、腐れた酒の蒸気が冷たいランビキの玻璃に透明な酒精の雫を形づくる迄のそれ自身の洗練はかりそめのものではない。君のセンチメンタリズムの信条はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める、この凝念の強さであらう。摩訶不思議なる此の真言の秘密はただ詩人のみが知る。

 

 月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面に生きてゐるものは悲しい。

 

 ぴようぴようと吠える、何かがぴようぴようと吠える。聴いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀬ない声、その声が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。

 

 萩原君。

 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。

 又更に君と室生君との芸術上の熱愛を思ふと涙が流れる。君の歓びは室生君の歓びである。さうして又私の歓びである。

 この機会を利用して、私は更に君に讃嘆の辞を贈る。

 

北原白秋

萩原朔太郎「月に吠える」に寄せた序文より

1917

若菜集(序文より)

こゝろなきうたのしらべは

ひとふさのぶだうのごとし

なさけあるてにもつまれて

あたゝかきさけとなるらむ

 

ぶだうだなふかくかゝれる

むらさきのそれにあらねど

こゝろあるひとのなさけに

かげにおくふさのみつよつ

 

そはうたのわかきゆゑなり

あぢはひもいろもあさくて

おほかたはかみてすつべき

うたゝねのゆめのそらごと

 

島崎藤村

若菜集」所収

1897

狐のわざ

庭にかくるゝ小狐の

人なきときに夜いでて

秋の葡萄の樹の影に

しのびてぬすむつゆのふさ

 

恋は狐にあらねども

君は葡萄にあらねども

人しれずこそ忍びいで

君をぬすめる吾心

 

島崎藤村

若菜集」所収

1897

秋は来ぬ

  秋は来ぬ

一葉は花は露ありて

風の来て弾く琴の音に

青き葡萄は紫の

自然の酒とかはりけり

 

秋は来ぬ

  秋は来ぬ

おくれさきだつ秋草も

みな夕霜のおきどころ

笑ひの酒を悲みの

盃にこそつぐべけれ

 

秋は来ぬ

  秋は来ぬ

くさきも紅葉するものを

たれかは秋に酔はざらめ

智恵あり顔のさみしさに

君笛を吹けわれはうたはむ

 

島崎藤村

若菜集」所収

1897