障子のある家(後記)

泉ちゃんと猟坊へ

 

 元気ですか。元気でないなら私のまねをしてゐなくなって欲しいやうな気がする。だが、お前達は元気でゐるのだらう。元気ならお前たちはひとりで大きくなるのだ。私のゐるゐないは、どんなに私の頬の両側にお前達の頬ぺたをくっつけてゐたって同じことなのだ。お前達の一人々々があって私があることにしかならないのだ。

 泉ちゃんは女の大人になるだらうし、猟坊は男の大人になるのだ。それは、お前達にとってかなり面白い試みにちがひない。それだけでよいのだ。私はお前達二人が姉弟だなどといふことを教えてゐるのではない。――先頭に、お祖父さんが歩いてゐる。と、それから一二年ほど後を、お祖母さんが歩いてゐる。それから二十幾年の後を父が、その後二三年のところを母が、それから二十幾年のところを私が、その後二十幾年のところを泉ちゃんが、それから三年後を猟坊がといふ風に歩いてゐる。これは縦だ。お互の距離がずいぶん遠い。とても手などを握り合っては事実歩けはしないのだ。お前達と私とは話さへ通じないわけのものでなければならないのに、親が子の犠牲になるとか子が親のそれになるとかは何時から始ったことなのか、これは明らかに錯誤だ。幾つかの無責任な仮説がかさなりあって出来た悲劇だ。

 ――考へてもみるがよい。時間といふものを「日」一つの単位にして考へてみれば、次のやうなことも言ひ得やうではないか。それは、「日」といふものには少しも経過がない――と。例へば、二三日前まで咲いてゐなかった庭の椿が今日咲いた――といふことは、「時間」が映画に於けるフヰルムの如くに「日」であるところのスクリンに映写されてゐるのだといふことなのだ。雨も風も、無数の春夏秋冬も、太陽も戦争も、飛行船も、ただわれわれの一人々々がそれぞれ眼の前に一枚のスクリンを持ってゐるが如くに「日」があるのだ。そして、時間が映されてゐるのだ。と。――

 又、さきに泉ちゃんは女の大人猟坊は男の大人になると私は言った。が、泉ちゃんが男の大人に、猟坊が女の大人にといふやうに自分でなりたければなれるやうになるかも知れない。そんなことがあるやうになれば私はどんなにうれしいかわからない。「親」といふものが、女の児を生んだのが男になったり男が女になってしまったりすることはたしかに面白い。親子の関係がかうした風にだんだんなくなることはよいことだ。夫婦関係、恋愛、亦々同じ。そのいづれもが腐縁の飾称みたいなもの、相手がいやになったら注射一本かなんかで相手と同性になればそれまでのこと、お前達は自由に女にも男にもなれるのだ。

 

父と母へ

 

 さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといってはどうにもならないことなのでせう。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいったい何なのでせう。何をしに生れて来るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るといふことは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる為にとでもいふことなのでせうか。だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。又、「親子」といふものが、あまり特種関係に置かれてゐることもわるいのでせう。――私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ決して出来ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言って来たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。

 

尾形亀之助

障子のある家」後書きより

1930

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