Category archives: Chronology

遠い分身

海抜二千メートルの曠野の草から
 
鐘をつるした避難の塔が立っている。
 
人は一篇の詩を銅板に刻んで
 
安山岩のその表面に嵌めこんだ。
 
―私の詩だ。
 
あわれ、ほかの誰の詩でもなく、
 
或る年の秋に私がそこの夕日に書いた
 
私自身の「美ガ原」の詩だ。

今夜東京には寒々と冬の雨が降っている。
 
それならば北方の遠い信濃はおそらく雪だ。
 
雪は吼えたける風に巻かれて
 
あの高原のあの広大なひろがりを
 
悲しく暗く濠々と駆けめぐっていることだろう。

鐘は深夜の烈風におもたく揺れて
 
その青銅の舌で鳴りつづけているかも知れない。
 
そして私の詩碑が他郷の夜の吹雪のなかに
 
じっと堪えていることだろう。
  
いとおしいのは、しかし雪の夜も、
 
赤や黄に躑躅の燃える春の日も、  
 
芒、尾花や、松虫草の秋といえども同じことだ。  
 
なぜならばあの詩あの文宇はまさに私の一部であり、
 
その私がこの世ではまだ生きの身だからだ。
 
死んでの後は知るよしもない。
 
せめてなお生きて喜び悲しむかぎりは、
 
人々よ、
 
どうか私の詩を私とだけ在らせてくれ。

尾崎喜八
「歳月の歌」所収
1958

すずめ

雀は常に楽しい
きょうもスガスガしくよく晴れている
太陽の光りを羽一杯に浴びて飛んでいる 

雀には頭脳がない
雀には考えることが必要でないからだ 

雀の頭の中から
雲が消え 鳥が消え 大地も消えてしまった

カラカラと頭の中で鳴っている
深い井戸の中へ石が落ちてゆくように
コロコロと音を立てている

それは木枯しでもなく
雪が崩れる音でもない

考えることは物の変化ヒズミに対応することである
ところで物の変化ヒズミを一切無視するなら考えることは不要である

急ぐことはない
多分雀は笑うだろう
夕陽のように笑うだろう
何を見ても
何を聞いても
雀は笑う
笑い飛ばすだろう  

その笑い声は雀には聞こえない
もはや消えてしまって
どこにもないからだ

どこにも何もない
有るとすれば
それは鳥の悲しそうな顔だけだ
鳥は泣いている
泣くことしか知らぬのだろう
濡れた涙の顔だけが消えのこっている

それを雀は塗り潰す
雀の体で塗りつぶす

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1957

山中饒舌

僕の胸の中にはもう一人の僕がゐます
木の葉のあひだから僕の横顔が見えます
見てゐると その人の胸の中にも
別の僕がゐるのがわかるのです
その彼はふみしめた足の下の方の谷川の流れを眺めてゐます
山腹の紅葉しはじめてゐる木を見つけたやうです
はるか彼方に小さいいくつかの滝を見つけたやうです
ああ 山全体がゆれはじめました
はげしい風が吹きはじめました
不安を感じたのか 彼は空を見上げるそぶりをしてゐます
未来は不安なものであるのか
滝の音がとめどなくとどろくやうにひびいて来ます
その彼は歩きはじめました
木の葉のあひだをもう一人の僕も歩きはじめました
僕は 最後に さうした自分たちを胸の中に抱きながら
青い岩石の乱れてゐる道を登つて行きます

小山正孝
「山の奥」所収
1971

としよつた農夫は斯う言つた

あの頃からみればなにもかもがらりとかはつた
だがいつみてもいいのは
此のひろびろとした大空だけだぞい
わすれもしねえ
この大空にまん圓い月がでると
穀倉のうしろの暗い物蔭で
俺等はたのしい逢引をしたもんだ
そこで汝あみごもつたんだ
何をかくすべえ
穀倉がどんな事でも知つてらあ
さうして草も燒けるやうな炎天の麥畑で
われあ生み落とされたんだ
それもこれもみんな天道樣がご承知の上のこつた
おいらはいつもかうして貧乏だが
われは秣草をうんと喰らつた犢牛のやうに肥え太つてけつかる
犢牛のやうに強くなるこつた
うちの媼もまだほんの尼つちよだつた
その抱き馴れねえ膝の上で
われあよく寢くさつた
それをみるのが俺等はどんなにうれしかつたか
そして目がさめせえすれば
山犬のやうに吼えたてたもんだ
其處にはわれが目のさめるのを色色な玩具がまつてただ
なんだとわれあおもふ
そこのその大きな鍬だ
それから納屋にあるあの犁と
壁に懸つてゐるあの大鎌だ
さあこれからは汝の番だ
おいらが先祖代代のこの荒れた畑地を
われあそのいろんなおもちやで
立派に耕作つてくらさねばなんねえ
われあ大え男になつた
そこらの尼つ子がふりけえつてみるほどいい若衆になつた
おいらはそれを思ふとうれしくてなんねえ
しつかりやつてくれよ
もうおいらの役はすつかりすんだやうなもんだが
おいらはおいらの蒔きつけた種子がどんなに芽ぶくか
それが唯一つの氣がかりだ
それをみてからだ
それをみねえうちは誰がなんと言はうと
決して此の目をつぶるもんでねえだ

山村暮鳥
風は草木にささやいた」所収
1918

大漁

朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。

濱は祭りの
やうだけど
海のなかでは
何萬の
鰮のとむらひ
するだらう。

金子みすゞ
金子みすゞ童謡全集」所収
1930

晴れた日に

車一台通れるほどの
アパートの横の道を歩いて行くと
向こうから走ってきた
自転車の若い女性が
すれ違いざまに「おはようございます」
と声をかけてきた。
私はあわてて
「おはようございます」と答えた。
少しゆくと
中年の婦人が歩いてくるので
こんどはこちらからにっこり笑って
お辞儀をしてみた。
するとあちらからも
少しけげんそうなお辞儀が返ってきた。

大通りへ出ると
並木がいっせいに帽子をとっていた。
何に挨拶しているのだろう
たぶん過ぎ去ってゆく季節に
今年の秋に。

そういえば私の髪も薄くなってきた
向こうから何が近づいてくるのだろう。
もしかしたらもうひとりの私だ
すれ違う時が来たら
「さようなら」と言おう
自転車に乗った若い女性のように
明るく言おう。

石垣りん
やさしい言葉」所収
1984

倚りかからず

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

茨木のり子
倚りかからず」所収
1999

男について

男は知っている
しゃっきりのびた女の
二本の脚の間で
一つの花が
はる
なつ
あき
ふゆ
それぞれの咲きようをするのを
男は透視者のように
それをズバリと云う
女の脳天まで赤らむような
つよい声で
 
男はねがっている
好きな女が早く死んでくれろ と
女が自分のものだと
なっとくしたいために
空の美しい冬の日に
うしろからやってきて
こう云う
早く死ねよ
棺をかついでやるからな
 
男は急いでいる
青いあんずは赤くしよう
バラの蕾はおしひらこう
自分の手がふれると
女が熟しておちてくる と
神エホバのように信じて
男の掌は
いつも脂でしめっている

滝口雅子
「鋼鉄の足」所収
1960

生れて何も知らぬ吾子の頬に
母よ、絶望の涙をおとすな。

その頬は赤く小さく、今はただ一つのはたんきやうにすぎなくとも
いつ人類のための戦ひに燃えないといふことがあらう。

生れて何もしらぬ吾子の頬に
母よ、悲しみの涙をおとすな。

ねむりの中に静かなるまつげのかげを落して
今はただ白絹のやうにやはらかくとも
いつ正義への決然にゆがまないといふことがあらう。

ただ自らの弱さと、いくじなさのために
生れて何も知らぬわが子の頬に
母よ、絶望の涙をおとすな。

竹内てるよ
「花とまごころ」所収
1933

耳たぶにときたま
妖精がきてぶらさがる
虻みたいなものだが 声は静かだ
(いまなにをしているの?)
街に降る雨を見ている
テレビは付けっぱなしだが
それはわざとしていることだ
だれもいない空間に
放映を続けるテレビ
好きなんだそういうものが
(それでなにをしているの?)
雨を見ている
雨って
ひとつぶひとつぶを見ようとすると
せわしなくて疲れるものだ
雨の向こうの
工場とか
突堤の先の
あれはなんだろう
流木だかひとだかわからない
たとえばああいうものを見ながら雨のぜんたいを
見ているのがいちばんいい
そういうものなんだ 雨は
(むずかしいのね ずいぶん)
何気ないことはなんだってむずかしいさ
虻にはわからないだろうけれど
(妖精よ あなたの
雨の
ひとつぶくらいのわたしですけど)

辻征夫
河口眺望」所収
1993