この本はごく少数者むきの書物である
ひょっとすると この少数者のうち
たゞ一人さえ まだ生れていないかもしれない
そう書いて フリードリヒ・ニーチェは
一九〇〇年に その姿を没した
沈みゆく夕陽にこたえて
樹にかくれた山の家の窓が
キラリと 光を放つこともあるのだ
杉山平一
「ぜぴゅろす」所収
1977
持つことを秋の道でおぼえたとき
風は一つ一つの草の実に吹き
野は一日一日の夕焼を蔵った
私はそうして秋を数えていた
昔は何を語り何を聞いたのか
昔は何を待ち何をのぞんだのか
川は知っているらしかった
そうして昔の川は私の傍を流れた
昔いくつかの物語は木の下で眠り
昔いくつかの恋は木の下で別れたと
嘘をつかない楡の木は云った
けれども忘れっぽい蝶は
木の向うに足音がすることや
木の中にかくれているひとを教えてくれた
岸田衿子
「忘れた秋」所収
1955
マッチを擦っても
新年の雪みちには犬の影もない
ひと足ごとに
夜の音が消えてゆく
冷気を炎と感じられるほど
ひとを憎むことも
許すことも できなかった
せめて
てのひらで雪を受ければ
いつまでも溶けない冬が
ふたたび訪れることはない病室へ流れていった
それを流星と呼んでいらい
わたしの願いはどこにも届かない
それでも星は
清潔な包帯のように流れつづけた
峯澤典子
「あのとき冬の子どもたち」所収
2017
あの女(ひと)は ひとり
わたしに立ち向かってきた
南三陸町役場の 防災マイクから
その声はいまも響いている
わたしはあの女を町ごと呑みこんでしまったが
その声を消すことはできない
”ただいま津波が襲来しています
高台へ避難してください
海岸付近には
絶対に近づかないでください”
わたしに意志はない
時がくれば 大地は動き
海は襲いかかる
ひとつの岩盤が沈みこみ
もうひとつの岩盤を跳ね上げたのだ
人間はわたしをみくびっていた
わたしはあの女の声を聞いている
その声のなかから
いのちが甦るのを感じている
わたしはあの女の身体を呑みこんでしまったが
いまもその声は
わたしの底に響いている
高良留美子
「その声はいまも」所収
2017
裏町にひとりの餓鬼あり、飢ゑ渇くことかぎりなければ、パンのみにては充たされがたし。胃の底にマンホールのごとき異形の穴ありて、ひたすら飢ゑくるしむ。こころみに、綿、砂などもて底ふたがむとせしが、穴あくまでひろし。おに、穴充たさむため百冊の詩書、工学事典、その他ありとあらゆる書物をくらひ、家具または「家」をのみこむも穴ますます深し。おに、電線をくらひ、土地をくらひ、街をくらひて影のごとく立ちあがるも空腹感、ますます限りなし。おに、みづからの胃の穴に首さしいれて深さはからむとすれば、はるか天に銀河見え、ただ縹渺とさびしき風吹けるばかり。もはや、くらふべきものなきほど、はてしなき穴なり。
寺山修司
「田園に死す」所収
1965