子供が野遊びからかえってきた
日が暮れて寒かったと言う
手や足に野焼の匂いがまだのこっている
枯草や芒や茨の燃える匂いがのこっている
さて僕は
夜ふけの机によりかかって
おもむろに自分の火を放つのだ
このこころに
このこころの枯草に
木下夕爾
「定本 木下夕爾詩集」所収
1966
子供が野遊びからかえってきた
日が暮れて寒かったと言う
手や足に野焼の匂いがまだのこっている
枯草や芒や茨の燃える匂いがのこっている
さて僕は
夜ふけの机によりかかって
おもむろに自分の火を放つのだ
このこころに
このこころの枯草に
木下夕爾
「定本 木下夕爾詩集」所収
1966
機織虫が夜どほしないてゐました
青い蚊帳の上を 銀河がしらじらとながれてゐました
こぼれ湯が石に冷え
燈火に女の髪の毛のやうに
ほつそりと秋がゐました
田中冬二
「晩春の日に」所収
1961
それは光のように透明で
幻のようにとらえがたく
実態はあっても型を持つことはない
手のひらに掬えばただの水なのに
空の下に置くと
いつの間にかあふれ出ようとしている
近づくと見失うが
はなれているときには
よしきりがキリキリ鳴き
さざ波の寄せてくる水の風景が
ほとんど愛という
至上の言葉に思えたりするから
最初のかなしみに似たその葦の岸辺に
わたしはくり返し戻りつづけるのだろう
某月某日
その河の長い橋を渡り水郷に入る
変貌する町まちの上空を
旋回する白い風も
光る葉先まで ひとり
かえってゆく
新井豊美
「半島を吹く風の歌」所収
1988
夜の胸飾 ほのかな月の光りの木影の水のやうに
暗らい扉のむかうで私は睡眠の歌にゆられてゐる
靑い庭のラムプ 消えて行く幸福の足音のやうに
霧にしめつた枝と枝との中に その光りはちらばり
逃げてゆく影 美しい影 瀕死のラムプよ
靑銅の鐘は絶えず悲哀と恐怖を告げてゆく
その傍で しぼんだ薔薇の叢で 私を取圍く失心
ゆるやかな樹魂の呟く神秘を心地よく耳にしながら
告白と悔懺と祈祷と 石と水と火と
それら無言の囁 神のやうに惡魔に似て
漂泊に疲れし肉よ 巡禮に倦みし心よ
私は瞶める 永遠に閉ぢられて開くことのない窓を
楠田一郎
「楠田一郎詩集」所収
1938
陰謀を抱かぬ男
男のふじつぼのように尖った肛門は華美だ 開いたまま過ごす
曲った股の間を占め 鰓と多くの触毛を持ち欲望するときうごく
常にそこがすっかり見える姿勢をとり 変えぬ
眠る際暗に穴をなし首を埋めてしまう
敵視する者には眼に卑猥な魔術の傘として映るので背後から見て蔑む
女にすらその部分で触れねばならず 避けるためにそれから厚い肉の被布を拡げ残忍に包む
無邪気であろう 男に廟と後架の区別がつかず
回廊の果て こもると色づいた甘藍のようになり 全身その器官で被われる
それにだけ承諾された男にとって他の機能は無益だ
男はその輝くものの底に溢れ 深い裂け目から濡れたぐにゃぐにゃの首や手を垂らし
胎児の優しさまで降りた蛆の視線を痙攣する穴の儀式に恋げかける
鎌田喜八
「エスキス」所収
1956
秋の日の象皮色の滑らかな道を
ころころと生首などを(おまえの首だ)
ひきずりながら歩いているおまえの気持はどんな気持か
首がおまえを見ている(おまえの首だ)
ひきずられながら 皮肉な目で
おまえの生のひろがりを測っている
そのひろがりの彼方には どこまでも
秋の日の象皮色の滑らかな道
ただもう秋の日の象皮色の滑らかな道
渋沢孝輔
「漆あるいは水晶狂い」所収
1969
ミルクを温めるのはむずかしい
青いガスの火にかけて
ほんのすこしのあいだ新聞を読んだり
考えごとをしていたりすると
たちまち吹きこぼれてしまう
そのときのぼくの狼狽と舌打ちには
いつも
「時間を見たぞ」
「時間に見られてしまったな」
という感覚がまざっている
ミルクがふくれるときの音って
じつに気持ちがわるい
と思いながら急いでガスの栓をひねったときはもう遅い
時間は
ゆうゆうと吹きこぼれながら
バカという
ぼくも思わずかっとして
チクショウといい返す
きょうの石鹸はいいにおいだった
なるほど
きのうのヒステリー
あしたの惨劇
みんな予定どおりというわけか
冬の時計が
もうじき夕方の六時を打つ
北村太郎
「ピアノ線の夢」所収
1980
しん 父はは、近親者がそう呼んだ。
しんちゃん 村びと、幼な友だちは村訛りで。
しんこぼたもち 悪態ついた悪童たち。
しんきち 二十歳 徴兵検査官は呼び捨てで。
いとう 二十七歳 特高警察は留置所で。
しんきち 三十六歳 戦時徴用官は権力づらで。
おとうさん 家族たちは暮しの座で。
しんきちさん わかい娘がそう呼んだ。
おじいちゃん、おじいちゃん 孫むすめは遊び相手を呼ぶ声で。
そして、
おれは
おれで、
そんなわけで
伊藤君。
このあと幾つ、私の呼び名は残ってる。
伊藤信吉
「上州」所収
1976
わたしたちは ついぞ
抱き合うことはなかった
お互いが お互いの迷路であったから
わたしは あなたのそばで途方に暮れ
あなたもまた わたしの横で迷子になっていた
行くことも
帰ることもできなくて
ただ しくしくとあなたは泣き出し
そしてわたしは
ますます すねてゆくのだった
あれから十年
夢や 時や 憤り
過ぎ去るものを じっとこらえて
わたしはまだ 同じ場所にいる
あの時の迷子のままで
高野喜久雄
「存在」所収
1961