みんなぼくの知らないところからあらわれてくる
みんなぼくの知らないところへ消えてゆく
山の小径で 足を投げだしてやすんでいると
左の手くびの上に
一羽のモンキチョウがきてとまる
体内の血が急にあつくなる
ぼくはチョウに生るべきだったのに
どこかでふとしたことからとりちがえられたのかもしれぬ
だからここで たがいの生の軌道が
もういっぺんだけ交叉したのかもしれぬ
あ もう行っちまうのか
さようなら
藤原定
「天地の間」所収
1944
みんなぼくの知らないところからあらわれてくる
みんなぼくの知らないところへ消えてゆく
山の小径で 足を投げだしてやすんでいると
左の手くびの上に
一羽のモンキチョウがきてとまる
体内の血が急にあつくなる
ぼくはチョウに生るべきだったのに
どこかでふとしたことからとりちがえられたのかもしれぬ
だからここで たがいの生の軌道が
もういっぺんだけ交叉したのかもしれぬ
あ もう行っちまうのか
さようなら
藤原定
「天地の間」所収
1944
白い毛糸の頭巾かぶつた私の小さいまな娘は
今朝もまた赤い朝日を顔に浴び、
初霜にちぢれた大根畠のみどりを越えて、
十一月の地平をかぎる箱根、丹沢、秩父連峯、
それより遠い、それより高い富士山の、
雪に光つて卓然たるを見にゆきます。
私の腕は彼女をつつむ藤色のジャケットの下で
小さな心臓のをどつてゐるのを感じます。
私の眼は
空間のしずくよりも清らかな彼女の瞳が、
ものみな錯落たる初冬の平野のはて、
あのれいろうとして崇高いものに
誠実に打たれてゐるのを見てとります。
朝の西風のつよい野中で
まあるく縮まつて幼い感動を経験してゐる
ちひさな肉体、神秘な魂、
その父親の腕に抱かれて声をも立てぬ一つの精神。
私のかはゆい白頭巾よ!
武蔵野うまれ、われらの愛児、
西も東も見さかひつかぬこの小娘を
私は正しく育てて人生におくる!
尾崎喜八
「曠野の火」所収
1927
十四歳の冬の朝
雨戸をあけると
光と綿ぼこりの積まれた
学習机の上に
あらゆるイメージが死んでいた
出来事はすでに片付けられ
時間が乾拭きにやってくるのを
待つだけ
学校は蛇のようで
制服に呑まれ
手にはその日ごとに買う電車の切符
ビーナスが林間をさまよおうとも
裳裾をひきずり
隣りに座り直そうとも
私には垂れた腕ばかりの自分しか
確かめられない
夢で 時々
誰かをひどくののしって目が覚めた
(なんとつまらないことを)
とは思わなかった
ただ 満たされた幸福な気持がして
身を起こしてぼんやりした
激しいものが出口を探している
それがなぜ
ニクシミの激しさでしかないのか
十四歳の冬の朝
光と綿ぼこりの積まれた
学習机の上で
私は冬の初めてのにおいをかぎ
イメージの鉄格子から
つばを吐き捨てる人を見た
井坂洋子
「地上がまんべんなく明るんで」所収
1994
うすよごれた鋲靴の踵を支点に
ピトンを打ち込む
その岩壁には ねむるべき石も
休むべきテラスもなかった
ぼくらをいまこんなに垂直にするものは
なんであろう
くろずんだハンマーを握り
ザイルを腰にまきつけ
ぼくらをいまこんなに薄明に近づけるものは
──山がそこにあるからだ
と 見知らぬ一人の登攀者は語ったが
あの雪渓と雷鳥のねむりはぼくらの渇き
霧にまかれ
きれぎれの雲をくぐり
おお そのながい苦痛のあとに
今行手に 一つの大きな夏がやってくる
ぼくは思う ふいにぼくの生涯が墜落する
この薄明のなかの
それは荒々しい季節の予感なのだ
と──
秋谷豊
「登攀」所収
1962
客あらん時をおもひて
母はわれらが日常の茶碗には
かけたるをいだす
我はかけたる茶碗もて
麦飯をくらふ。
母よ今日は何かありや
けふはひるに誰も居らざれば
何もつくらねど
ここに紫蘇の煮たるあれば
それにてすませよ
母は庭にありて答ふ。
画を描き来りて
ひるすぎ
われはかけたる茶碗もて
麦飯をくらふ
秋なれや
日の光うらうら
木のかげはまどろむ
母よ
わが麦めしはとりわけて今日うまし。
中川一政
「見なれざる人」所収
1921
もしもそのときがあるなら
胸騒ぎを押さえている
もしもそのときがあるなら
ぼくも疾風になって行くことができるだろうか
暗いガラス窓には
ぼくを見つめる二つの目が光っている
陽子はくろずんだ瞳をようやく閉じ
もしもそのときがあるなら
そんなことはありえないという
吐息に近い願いのむこうがわで
束の間の哀しい睡りについている
ティッシュペーパーに手をのばし
タンが出るときの用意を忘れていない
もしもそのときがあるなら
ああそれっきりだ
もしもそのときがあるなら
胸騒ぎを押さえている
胸騒ぎではない
すでに知らされていることだ
さからっているから
胸騒ぎになるだけだ
暗いガラス窓には
ぼくを見つめる二つの目が光っている
もうどうしようもないのに
凋むまいと
あきれるほど
大きな眼に
なっている
倉橋健一
「藻の未来」所収
1997
線路に下りて
夢中で餌を啄ばんでいた小さな鳩は
気がつかなったのだ
忽ち
プラットホームに進入してくる電車の
風圧に巻き込まれ
小さな身体が
無惨にも轢殺された
眼の前で
一羽の小さな鳩が死んだとき
隣国から
一人の青年の死が届いた
どこから射ったのか
銃弾が胸を貫き
群衆の見ている前で
仰向けに倒れた
血が流れている右手の先に
コーラの赤い缶が転がっていた
そして
熱い飢餓地帯で母親の痩せた乳房をくわえた
小さな命が
またひとつ絶えた
私がいつも歩いている町では
家の庭に
あじさいの花が咲きはじめ
いま紅色に変ったところだ
上林猷夫
「鳥の歌」所収
1994
死んでしまったひとがいっぱいいる町にすんでいると ちいさな女の子までときに妖しくみえてくることがある そんなのがせなかにのってあんましてくれたりしている
岡安恒武
「湿原 岡安恒武詩集」所収
1971
一九五八年元旦の午前0時
ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
ぎっしり芋を洗う盛況。
脂と垢で茶ににごり
毛などからむ藻のようなものがただよう
湯舟の湯
を盛り上げ、あふれさせる
はいっている人間の血の多量、
それら満潮の岸に
たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
新しい年にむかって泡の中からヴィナスが生れる。
これは東京の、とある町の片隅
庶民のくらしのなかのはかない伝説である。
つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
と、ゴマジオ色のパーマネントが
あざらしのような洗い髪で外界へ出ていった
過去と未来の二枚貝のあいだから
片手を前にあてて、
待っているのは竹籠の中の粗末な衣装
それこそ、彼女のケンリであった。
こうして日本のヴィナスは
ポッティチェリが画いたよりも
古い絵の中にいる、
文化も文明も
まだアンモニア臭をただよわせている
未開の
ドロドロの浴槽である。
石垣りん
「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」所収
1959
セネガルの動物園に珍しい動物がきた
「人嫌い」と貼札が出た
背中を見せて
その動物は椅子にかけていた
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
夜になって動物園の客が帰ると
「人嫌い」は内から鍵をはずし
ソッと家へ帰って行った
朝は客の来る前に来て
内から鍵をかけた
「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた
雨の日はコーモリ傘をもってきた。
天野忠
「動物園の珍しい動物」所収
1989