一九五八年元旦の午前0時
ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
ぎっしり芋を洗う盛況。
脂と垢で茶ににごり
毛などからむ藻のようなものがただよう
湯舟の湯
を盛り上げ、あふれさせる
はいっている人間の血の多量、
それら満潮の岸に
たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
新しい年にむかって泡の中からヴィナスが生れる。
これは東京の、とある町の片隅
庶民のくらしのなかのはかない伝説である。
つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
と、ゴマジオ色のパーマネントが
あざらしのような洗い髪で外界へ出ていった
過去と未来の二枚貝のあいだから
片手を前にあてて、
待っているのは竹籠の中の粗末な衣装
それこそ、彼女のケンリであった。
こうして日本のヴィナスは
ポッティチェリが画いたよりも
古い絵の中にいる、
文化も文明も
まだアンモニア臭をただよわせている
未開の
ドロドロの浴槽である。
石垣りん
「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」所収
1959