兄弟

<じゅん子 兄ちゃんのこと好きか>
<すき>
<好きだな>
  <うん すき>
<兄ちゃんも じゅん子のこと大好きだ
 よし それではっと・・・何か食べるとするか>

天使の会話のように澄んだものが
聴えてきて はっと目覚める
夜汽車はほのぼのあける未明のなかを
走っている
乗客はまだ眠りこけたまま
小鳥のように目覚めの早い子供だけが
囀りはじめる

お爺さんに連れられて夏休みを
秋田に過しに行くらしい可愛い兄弟だった
窓の外には見たことのない荒海が
びしりびしりとうねりつづけ
渋団扇いろの爺さんはまだ眠ったまま
心細くなった兄貴の方が
愛を確認したくなったものとみえる

不意に私のなかでこの兄弟が
一寸法師のように成長しはじめる
二十年さき 三十年さき
二人は遺産相続で争っている
二人はお互いの配偶者のことで こじれにこじれている
兄弟は他人の始まりという苦い言葉を
むりやり飲みくだして涙する

ああ そんなことのないように
彼らはあとかたもなく忘れてしまうだろう
羽越線のさびしい駅を通過するとき
交した幼い会話のきれはし 不思議だ
これから会うこともないだろう他人の私が
彼らのきらめく言葉を掬い
長く記憶し続けてゆくだろうということは

茨木のり子
人名詩集」所収
1971

立ち往生

眠れないのである
土の上に胡坐をかいてゐるのである
地球の表面で尖つてゐるものはひとり僕なのである
いくらなんでも人はかうしてひとりつきりでゐると
自分の股影に
ほんのりと明るむ喬木のやうなものをかんじるのである
そこにほのぼのと生き力が燃え立つてくるのである
生き力が燃え立つので
力のやり場がせつになつかしくなるのである
女よ、そんなにまじめな顔をするなと言ひたくなるのである
闇のなかにかぶりを晒らしてゐると
健康が重たくなつて
次第に地球を傾けてゐるのをかんじるのである

山之口貘
山之口獏詩文集」所収
1963

二人連

 若い男といふものは、時として妙な氣持になる事があるものだ。ふわふわとした、影の樣な物が、胸の中で、右に左に寢返りをうつてじたばたしてる樣で、何といふ事もなく氣が落付かない。書を讀んでも何が書いてあるやら解らず。これや不可と思つて、聲を立てて讀むと何時しか御經の眞似をしたくなつたり、薩摩琵琶の聲色になつたりする。遠方の友達へでも手紙を書かうとすると、隣りの煙草屋の娘が目にちらつく。鼻先を電車が轟と驅る。積み重ねておいた書でも崩れると、ハツと吃驚して、誰もゐないのに顏を赤くしたりする。何の爲に恁うそわそわするのか解らない。新しい戀に唆かされてるのでもないのだ。
 或晩、私も其麼氣持になつて、一人で種々な眞似をやつた。讀さしの書は其方のけにして、寺小屋の涎くりの眞似もした。鏡に向つて大口を開いて、眞赤な舌を自由自在に動かしても見た。机の縁をピアノの鍵盤に擬へて、氣取つた身振をして滅多打に敲いても見た。何之助とかいふ娘義太夫が、花簪を擲げ出し、髮を振亂して可愛い目を妙に細くして見臺の上を伸上つた眞似をしてる時、スウと襖が開いたので、慌てて何氣ない樣子をつくらうて、開けた本を讀む振をしたが、郵便を持つて來た小間使が出て行くと、氣が附いたら本が逆さになつてゐた。
 たまらなくなつて、帽子も冠らず戸外へ飛出して了つた。暢然歩いたり、急いで歩いたり、電車にも乘つたし、見た事のない、狹い横町にも入つた。車夫にも怒鳴られたし、ミルクホールの中を覗いても見た。一町ばかり粹な女の跟をつけても見た。面白いもので、何でも世の中は遠慮する程損な事はないが、街を歩いても此方が大威張で眞直に歩けば、徠る人も、徠る人も皆途を避けてくれる。
 妻を持つたら、決して夜の都の街を歩かせるものぢやない、と考へた。華やかな、晝を欺く街々の電燈は、怎しても人間の心を浮氣にする。情死と決心した男女が恁麼街を歩くと、屹度其企てを擲つて驅落をする事にする。
 さらでだにふらふらと唆かされてゐる心持を、生温かい夏の夜風が絶間もなく煽立てる。
 日比谷公園を出て少許來ると、十間許り前を暢然とした歩調で二人連の男女が歩いてゐる。餘り若い人達ではないらしいが何方も立派な洋裝で、肩と肩を擦合して行くではないか、畜生奴!
 私は此夜、此麼のを何十組となく見せつけられて、少からず憤慨してゐたが、殊にも其處が人通の少い街なので、二人の樣子が一層睦じ氣に見えて、私は一層癪に觸つた。
 と、幸ひ私の背後から一人の若い女が來て、急足で前へ拔けたので、私は好い事を考へ出した。
 私は、早速足を早めて、其若い女と肩を並べた。先刻から一緒に歩いてゐる樣な具合にして、前に行く二人連に見せつけてやる積りなのだ。
 女は氣の毒な事には、私の面白い計畫を知らない。何と思つたか、急に俯いて一層足を早めた。二人連に追付くには結句都合が可いので、私も大股に急いで、肩と肩を擦れさうにした。女は益々急ぐ、私も離れじと急ぐ。
 たまらない位嬉しい。私は首を眞直にして、反返つて歩いた。
 間もなく前の二人連に追付いて、四人が一直線の上に列んだ。五六秒經つと、直線が少許歪んで、私達の方が心持前へ出た。
 私は生れてから、恁麼得意を覺えた事は滅多にない。で、何處までも末頼母しい情人の樣に、態度をくづさず女の傍に密接いて歩きながら滿心の得意が、それだけで足らず、些と流盻を使つて洋裝の二人連を見た。其麼顏をしてけつかるだらうと思つて。
 私は不思首を縮めて足を留めた。
 親類の結婚式に招ばれて行つた筈の、お父さんとお母さんが、手をとり合つて散歩ながらに家に歸る所だ!
『おや光太郎(私の名)ぢやないか! 帽子も冠らずに何處を歩いてゐるんだらう!』
 とお母さんが……
 私は生れてから、恁麼酷い目に逢つた事は滅多にない!

石川啄木
啄木詩集」所収
1912

 どこへいつても、石よ。
君がころがつてない所はない。
青い扁豆、丸い砂礫。
どれも、初対面ではなささうな。

土ぼこりで白い雑草の根方、
電柱や、道標の周りに、垣添ひに、
車輛にふまれ、荷馬の蹄にはじかれ、
靴底にふまれ、下駄にかつとばされ、
だが、誰もこころに止めないのだ。
君を邪険にあつかつたこと、君がゐることさへも。
たまさか、君を拾ひあげるものがあつても、
それは、気まぐれに遠くへ投げるためだ。

君のやうなもののことを、支那では、
黎民とよび、黔首と名づけた。
石よ。君は、黙々として、
世紀から世紀へ、なにを待つてゐる?

君がみてゐるのは、どつちの方角だ?
石は答へない。だが、私は知つてゐる。
この地上からがらくたいつさいが亡びた一番あとまで、
のこつてゐるのが君だといふことを。

金子光晴
大腐爛頌」所収
1960

春の美しい一日

 春の美しい一日はたしかにある。暗い暗い人世に於いてすら、たしかにそんなものはあつた。
 不思議なことに、それを憶ひ出すのは一つの纏つた絵としてである。私について云へば、額縁に嵌められた、春の野山の風景がある。霞んだ空と紫色の山と緑の道路とが、中学生の頭に一つの苦悩にまで訴へて、過ぎ去つた瞬間を追求させた。するとたしかに窓枠が浮んで来た。その窓のほとりで子供の私が悲んでゐた。四月の美しい空を眺めて、その日が過ぎて行かうとするのを恍惚としてゐた。何が一体恍惚に価したかと云へば、その日は桃の節句で、小さな玩具の鍋と七輪で姉が牛肉のきれつぱしを焚いて、焚けると云つて喜んでゐた。しかし、私の頭にはもつと何か美しいものが一杯とその日には満ちてゐた。美しいものとは何か、それは結局何でもないことにちがひない。
 今にして、私は昼寝して、空が真青だ、あんな真青な空に化したいと号泣する夢をみる。荒涼とした浮世に於ける、つらい暗い生活が私にもある。しかし、人生のこと何がはたして夢以上に切実であるか。春の美しい一日はたしかにある。

原民喜
原民喜全詩集」所収
1936

路上偶成

あと ひと息のところで
カタとおち
遮断機が 行手に大手をひろげた

まのあたり 月を載せ
――清水に流した素麺、いな
あの白ぬきの縞がらを いくすぢの線路が織る

とつぜん
ざあつとひかりを わたしに浴びせかけ
光り虫が いくつか
断続しながら わがまへを過ぎた

佇んで しばし
わたしは半生の行路にして
いくたび わたしを阻んだ
あの眼にみえぬ遮断機を かたどる

眼前咫尺まで おびきよせて遮り
故意に拒むやうな 依怙地な仕打をなしたもの

通りすぎるまでの ぎりぎりの
結着を待つて 暖かに 降ろされたもの

一歩は踏みこませ またひき戻させたもの
半ば歩ませ 半ばは駈歩に 急きたてたもの
はてしなく 待ち草臥れさせたもの
まち草臥れさせて 傍の
跨線橋に追ひやつてから すぐと展いたもの

いま一歩にして
みつけた伴侶を 見失はせたもの
それに
それから……

高祖保
「独楽」所収
1945

何かとしかいえないもの

それは日曜の朝のなかにある。
それは雨の日と月曜日のなかにある。
火曜と水曜と木曜と、そして
金曜の夜と土曜の夜のなかにある。

それは街の人混みの沈黙のなかにある。
悲しみのような疲労のなかにある。
雲と石のあいだの風景のなかにある。
おおきな木のおおきな影のなかにある。

何かとしかいえないものがある。
黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。
それから、コーヒーをもう一杯。
それはきっと二杯めのコーヒーのなかにある。

長田弘
食卓一期一会」所収
1987

貧しい町

一日働いて帰ってくる。
家の近くのお総菜屋の店先は
客もとだえて
売れ残りのてんぷらなどが
棚の上に まばらに残っている。

そのように
私の手もとにも
自分の時間、が少しばかり
残されている。
疲れた 元気のない時間、
熱のさめたてんぷらのような時間。

お総菜屋の家族は
今日も店の売れ残りで
夕食の膳をかこむ。
私もくたぶれた時間を食べて
自分の糧にする。

それにしても
私の売り渡した
一日のうち最も良い部分、
生きのいい時間、
それらを買って行った昼間の客は
今頃どうしているだろう。
町はすっかり夜である。

石垣りん
表札など」所収
1968

黄金分割

重大な責任をとった
というときに
重大でない部分は
各自の責任に
移される
そこからかろうじて一歩を
踏み出さねばならぬ
われらをうごかしたのは
いわば運命であり
国家もまた運命である だが
運命もまた
信ずべきなにかである
だまされた で
すむはずはない
信じ切った部分と
見捨てられた部分
もはや信じえない部分とを
詩人であるかぎり
整合しなければならないのだ
黄金の分割のために

石原吉郎
「足利」所収
1977

遠い国の船つきでおれは五年も暮らしてきた
おれはいつでも独りぼつちでさびしい窓にぼんやりもたれて暮してゐたのだ
ああそのながい間ぢゆうおれは何を見てゐただらう
鴉 鴉 鴉 あのいんきな鬱陶しい仲間たち
今日も思ひ出すのは奴らのことばかりだ
あのがつがつとした奴らが明け暮れ辺鄙な空にまかれて
漁船のうかんだ海の上まであいつらが空をひつかきまはした
朝焼けにも夕焼けにも
せつかく絵具をぬりたてた
そこいらぢゆうの風景をめちやめちやにして
あいつらは火事場泥棒のやうにさわぎまはつた
何といふがさつな浅ましい奴らだらう
朝つぱらのしののめから
奴らはせつせと遠くの方まで出かけていつた
さうしてそこらの砂浜で何だかごたごた腐つたさかなの頭なんかを
頬ばつたりひろひこんだり
あくびをしたり喧嘩をしたりさ
それから小首をかしげたり
さうして都会の小僧どもが日暮れの自転車をふむやうに
奴らはせかせか羽ばたきをして
後から後から後から 海を渡つてもどつてきたものだ
けれどもどうだらう
これから後五百万年も きつと奴らは滅びることはないだらう
そんな苦しい考へから
おれはいつもひとりで結局ふさぎこんでしまつたものだ
おまけに今日は東京銀座の四つ辻で
外でもないおれはまたあいつらのことを思ひだしてゐるのだ
何といふわびしい追想だらう
笑つてやれ!
ここではお洒落なハンド・バッグが何だかあいつらのまねをして
この日の暮れのうすぼんやりした海の上をせかせか羽ばたくからだらう

三好達治
駱駝の瘤にまたがつて」所収
1952