<じゅん子 兄ちゃんのこと好きか>
<すき>
<好きだな>
<うん すき>
<兄ちゃんも じゅん子のこと大好きだ
よし それではっと・・・何か食べるとするか>
天使の会話のように澄んだものが
聴えてきて はっと目覚める
夜汽車はほのぼのあける未明のなかを
走っている
乗客はまだ眠りこけたまま
小鳥のように目覚めの早い子供だけが
囀りはじめる
お爺さんに連れられて夏休みを
秋田に過しに行くらしい可愛い兄弟だった
窓の外には見たことのない荒海が
びしりびしりとうねりつづけ
渋団扇いろの爺さんはまだ眠ったまま
心細くなった兄貴の方が
愛を確認したくなったものとみえる
不意に私のなかでこの兄弟が
一寸法師のように成長しはじめる
二十年さき 三十年さき
二人は遺産相続で争っている
二人はお互いの配偶者のことで こじれにこじれている
兄弟は他人の始まりという苦い言葉を
むりやり飲みくだして涙する
ああ そんなことのないように
彼らはあとかたもなく忘れてしまうだろう
羽越線のさびしい駅を通過するとき
交した幼い会話のきれはし 不思議だ
これから会うこともないだろう他人の私が
彼らのきらめく言葉を掬い
長く記憶し続けてゆくだろうということは
茨木のり子
「人名詩集」所収
1971