蟻が

蝶の羽をひいて行く

ああ

ヨットのようだ

 

三好達治

南窗集」所収

1932

落葉松

昨日 林でみかけた人、だがあの人ではない。

 

どうしたのだらう、帽子を手に持つて、私は何を考えていたのだろう。

 

「今晩は 今晩は。」

樹々の奥で、霧の奥で、燈火がともる。

 

津村信夫

愛する神の歌」所収

1935

昨日はどこにもありません

昨日はどこにもありません

あちらの箪笥のひき出しにも

こちらの机の引き出しにも

昨日はどこにもありません

 

それは昨日の写真でしょうか

そこにあなたの立っている

そこにあなたの笑っている

それは昨日の写真でしょうか

 

いいえ昨日はありません

今日を打つのは今日の時計

昨日の時計はありません

今日を打つのは今日の時計

 

昨日はどこにもありません

昨日の部屋はありません

それは今日の窓掛けです

それは今日のスリッパです

 

今日悲しいのは今日のこと

昨日のことではありません

昨日はどこにもありません

今日悲しいのは今日のこと

 

いいえ悲しくはありません

何で悲しいものでしょう

昨日はどこにもありません

何が悲しいものですか

 

昨日はどこにもありません

そこにあなたの立っていた

そこにあなたの笑っていた

昨日はどこにもありません

 

三好達治

測量船」所収

1930

月夜の浜べ

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちていた。

 

それを拾って、役立てようと

僕は思ったわけでもないが

なぜだかそれを捨てるに忍びず

僕はそれを、袂に入れた。

 
月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちていた。
それを拾って、役立てようと

僕は思ったわけでもないが

   月に向ってそれは抛れず

   浪に向ってそれは抛れず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、拾ったボタンは

指先に沁み、心に沁みた。

 

月夜の晩に、拾ったボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?

 

中原中也

在りし日の歌」所収

1938

頑是無い歌

思えば遠く来たもんだ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯気は今いずこ

 

雲の間に月はいて

それな汽笛を耳にすると

竦然として身をすくめ

月はその時空にいた

 

それから何年経ったことか

汽笛の湯気を茫然と

眼で追いかなしくなっていた

あの頃の俺はいまいずこ

 

今では女房子供持ち

思えば遠く来たもんだ

此の先まだまだ何時までか

生きてゆくのであろうけど

 

生きてゆくのであろうけど

遠く経て来た日や夜の

あんまりこんなにこいしゅうては

なんだか自信が持てないよ

 

さりとて生きてゆく限り

結局我ン張る僕の性質

と思えばなんだか我ながら

いたわしいよなものですよ

 

考えてみればそれはまあ

結局我ン張るのだとして

昔恋しい時もあり そして

どうにかやってはゆくのでしょう

 

考えてみれば簡単だ

畢竟意志の問題だ

なんとかやるより仕方もない

やりさえすればよいのだと

 

思うけれどもそれもそれ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯気や今いずこ

 

中原中也

在りし日の歌」所収

1938

なにもそうかたを・・・・

なにもそうかたをつけたがらなくてもいいではないか

なにか得体の知れないものがあり

なんということなしにひとりでにそうなってしまう

 というのでいいではないか

咲いたら花だった 吹いたら風だった

それでいいではないか

 

高橋元吉

「草裡」所収

1944

鰊が地下鉄道をくぐつて食卓に運ばれてくる。

 

安西冬衛

軍艦茉莉」所収

1929

桜の実

苔蒸した砌の上に桜の実が堕ちた。智慧が苦いものを少年に嘗らせた。

 

安西冬衛

桜の実」所収

1946

馬の胴体の中で考えていたい

おゝ私のふるさとの馬よ

お前の傍のゆりかごの中で

私は言葉を覚えた

すべての村民と同じだけの言葉を

村をでゝきて、私は詩人になつた

ところで言葉が、たくさん必要となつた

人民の言ひ現はせない

言葉をたくさん、たくさん知つて

人民の意志の代弁者たらんとした

のろのろとした戦車のやうな言葉から

すばらしい稲妻のやうな言葉まで

言葉の自由は私のものだ

誰の所有でもない

突然大泥棒奴に、

──静かにしろ

声を立てるな──

と私は鼻先に短刀をつきつけられた、

かつてあのやうに強く語つた私が

勇敢と力とを失つて

しだいに沈黙勝にならうとしてゐる

私は生れながらの唖でなかつたのを

むしろ不幸に思ひだした

もう人間の姿も嫌になつた

ふるさとの馬よ

お前の胴体の中で

じつと考へこんでゐたくなつたよ

『自由』といふたつた二語も

満足にしやべらして貰へない位なら

凍つた夜、

馬よ、お前のやうに

鼻から白い呼吸を吐きに

わたしは寒い郷里にかへりたくなつた

 

小熊秀雄

哀憐詩集」所収

1940

それでは計算いたしませう

それでは計算いたしませう

場所は湯口の上根子ですな

そこのところの

総反別はどれだけですか

五反八畝と

それは台帳面ですか

それとも百刈勘定ですか

いつでも乾田ですか湿田ですか

すると川から何段上になりますか

つまりあすこの栗の木のある観音堂と

同じ並びになりますか

あゝさうですか、あの下ですか

そしてやっぱり川からは

一段上になるでせう

畦やそこらに

しろつめくさは生えますか

上の方にはないでせう

そんならスカンコは生えますか

マルコやヽヽはどうですか

土はどういうふうですか

くろぼくのある砂がゝり

はあさうでせう

けれども砂といったって

指でかうしてサラサラするほどでもないでせう

掘り返すとき崖下の田と

どっちの方が楽ですか

上をあるくとはねあげるやうな気がしますか

水を二寸も掛けておいて、あとをとめても

半日ぐらゐはもちますか

げんげを播いてよくできますか

槍たて草が生えますか

村の中では上田ですか

はやく茂ってあとですがれる気味でせう

そこでこんどは苗代ですな

苗代はうちのそば 高台ですな

一日いっぱい日のあたるとこですか

北にはひばの垣ですな

西にも林がありますか

それはまばらなものですか

生籾でどれだけ播きますか

燐酸を使ったことがありますか

苗は大体とってから

その日のうちに植えますか

これで苗代もすみ まづ ご一服してください

そのうち勘定しますから

さてと今年はどういふ稲を植えますか

この種子は何年前の原種ですか

肥料はそこで反当いくらかけますか

安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは

三十年に一度のやうな悪天候の来たときは

藁だけとるといふ覚悟で大やまをかけて見ますか

 

宮沢賢治

「補遺詩篇」所収

1933