Category archives: 1960 ─ 1969

朝の鏡

夜来の雨が小さな水溜りを作った
それは或る朝あけの人げない郊外電車の停留所の片隅のこと。
今日も遠い勤め通いの娘が一人
すこし破れた靴を気にしながらやって来て
一番電車を待っていた。
その足元の水溜りに
娘の姿が映り
娘のうしろの朝やけの雲の薔薇が映り
うすくれないに娘の周りを染めながら
少しずつ、少しずつ褪せていった。
やがて娘はさりげなく
一番電車で消えてゆくと
水際にはしばらく空の色だけが流れた。

それから何時ものように
朝の停留所は騒がしくなり
陽はきらきらと照りはじめ
又何時ものように
何もなかったとでも云うように
水溜りは踏みつぶされて乾いていった。
あの娘も、あの雲の薔薇も
誰一人知る者もないままに消えていった。

神様が地上にそっと置いてみて
また持ち去った、あの水鏡、水溜り。

野田宇太郎
「夜の蜩  野田宇太郎全詩集」所収
1966

見えない木

雪のうえに足跡があった
足跡を見て はじめてぼくは
小動物の 小鳥の 森のけものたちの
支配する世界を見た
たとえば一匹のりすである
その足跡は老いたにれの木からおりて
小径を横断し
もみの林のなかに消えている
瞬時のためらいも 不安も 気のきいた疑問符も そこにはなかった
また 一匹の狐である
彼の足跡は村の北側の谷づたいの道を
直線上にどこまでもつづいている
ぼくの知っている飢餓は
このような直線を描くことはけっしてなかった
この足跡のような弾力的な 盲目的な 肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかった
たとえば一羽の小鳥である
その声よりも透明な足跡
その生よりもするどい爪の跡
雪の斜面にきざまれた彼女の羽
ぼくの知っている恐怖は
このような単一な模様を描くことはけっしてなかった
この羽跡のような 肉感的な 異端的な 肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかったものだ

突然 浅間山の頂点に大きな日没がくる
なにものかが森をつくり
谷の口をおしひろげ
寒冷な空気をひき裂く
ぼくは小屋にかえる
ぼくはストーブをたく
ぼくは
見えない木
見えない鳥
見えない小動物
ぼくは
見えないリズムのことばかり考える

田村隆一
言葉のない世界」所収
1962

忘れ物

入道雲にのって
夏休みはいってしまった
「サヨナラ」のかわりに
素晴らしい夕立をふりまいて

けさ 空はまっさお
木々の葉の一枚一枚が
あたらしい光とあいさつをかわしている

だがキミ!夏休みよ
もう一度 もどってこないかな
忘れものをとりにさ

迷い子のセミ
さびしそうな麦わら帽子
それから ぼくの耳に
くっついて離れない波の音

高田敏子
月曜日の詩集」所収
1962

友引の日

なにしろぼくの結婚なので
さうか結婚したのかさうか
結婚したのかさうか
さうかさうかとうなづきながら
向日葵みたいに咲いた眼がある
なにしろぼくの結婚なので
持参金はたんまり来たのかと
そこにひらいた厚い唇もある
なにしろぼくの結婚なので
いよいよ食へなくなったらそのときは別れるつもりで結婚したのかと
もはやのぞき見しに來た顔がある
なにしろぼくの結婚なので
女が傍にくつついてゐるうちは食へるわけだと云つたとか
そつぽを向いてにほつた人もある
なにしろぼくの結婚なので
食ふや食はずに咲いたのか
あちらこちらに咲きみだれた
がやがやがやがや
がやがやの
この世の杞憂の花々である

山之口貘
山之口獏詩文集」所収
1963

少年が沖にむかって呼んだ
「おーい」
まわりの子どもたちも
つぎつぎに呼んだ
「おーい」 「おーい」
そして
おとなも 「おーい」 と呼んだ

子どもたちは それだけで
とてもたのしそうだった
けれど おとなは
いつまでもじっと待っていた
海が
何かをこたえてくれるかのように

高田敏子
月曜日の詩集」所収
1962

あなたは誰

あなたはいったい誰
ずっと以前から
私の存在の内側にはりついて
私に似すぎてみせたり
似ても似つかぬふりをしたりする愚かな属性

けものだろうか あるときは
敵を求めて徘徊する
その行動半径の大きくて確実なこと
鳥だろうか あるときは
心臓の中からやさしい声が
まぎれもなくささやきかけることがある
猛禽だろうか あるときは
すべてのきずなから解かれて
ただの私に帰ろうとする私を
思いきりつきとうしにくる深夜のくちばし

あなたはいったい誰
いつからそういうことになったのか
私の半身になりすまして
私が表であなたが裏だったり
またはそのまったく逆だったりする奇妙な関係

あなたが着物で私が中身だとしたら
着物のすそに足をとられて私は動けない
私が着物であなたが中身だとしたら
あなたは裸身のまま何ひとつかくせない
身のおきどころもなく走り出しても
背中あわせの縄ばしごには
あなたものぼれない 私も
のぼれない 私もあなたも
どこへ脱出すればいいのか迷ったまま
もう何年でも宙づりになって揺れているだけ

牟礼慶子
「魂の領分」所収
1965

春雨

ぼくが消えてしまうところが
この地上のどこかにある
死は時の小さな爆発にあって
ふいに小鳥のようにそこに落ちてくるだろう

その場所はどんな地図にも書いてない
しかし誰かがすでにそこを通ったようにおもわれるのは
その上に灰いろの空が重く垂れさがっていて
ひとの顔のような大きな葉のある木が立っているからだ
あなたは歩みを速めて木の下を通りかかる
そしてなにかふしぎな恐れと温かな悲しみを感じる
ぼくの死があなたの過去をゆるやかに横切っているのだろう

春雨がしめやかに降りだした
いますべての木の葉が泣きぬれた顔のように
いつまでもじっとあなたを見おろしている

嵯峨信之
魂の中の死」所収
1966

五月は私の時

五月には
私は帰らなければならない
今の仙台の病院から故郷へ帰って
私の犬へ予防注射をしてやらねばならない

私の犬は雑種のまた雑種であって
大変みにくくてきたない犬だから
誰も注射に連れて行ってくれる人はいないのだ
父でも母でも妹でも
およそ私の恋人でもそれだけはできないのだ

犬はもともと野良犬だから
私を忘れてしまっているだろう
私を忘れてしまって何処ともあてもなく
さまよい歩いているだろう
私は私の犬のさまよい歩く処なら
ちゃんと知っているのだ

それは世界のめぐまれない隅や
またきたないたまり場や
およそ野良犬として人に好かれない処など
おろおろおろおろ歩いているのだ

だがそういう犬ならば
人は誰でも持っているのだ
持っているから人は何処へ行っても何処にいても
あってもなくてもせつなく故郷を思うのだ
村を離れれば村のことを
国を追われれば国のことを

五月は私のそういう時なのだ
私の犬に私ひとりだけしかできない
私の犬が狂ってしまわないように
注射をうってやらなければならない
時なのだ

村上昭夫
動物哀歌」所収
1967

ゆう子

ゆう子
そなたにイエス・キリストを生んでもらいたかったのに
そなたは実在の女ではない
そなたはぼくの悲しみのなかに存在する女
そなたの名は夕焼けのゆう
そなたの名は憂愁のゆう

ゆう子
そなたにマイトレーヤを生んでもらいたかったのに
そなたは永劫に架空の女
そなたはぼくの孤独のなかに存在する女
そなたの名は夕闇のゆう
そなたの名は幽遠のゆう

ゆう子
そなたの名のゆえに世界は崩壊すればよい
人類は舞い狂う砂漠の砂となればよい

ゆう子
そなたの名のゆえに世界は荒野となればよい
氷河や氷山は溶解し
都市という都市はあふれる水の下に沈むがよい

厚木はしらじらしく裂け
河という河ははんらんし
大地にきれつが生じ
終いに一匹のいなごが
未知の宇宙へ向って飛び立つがよい

ゆう子
ぼくに真実をつげさせてくれるゆう子
そのために
そなたの名があればよい

村上昭夫
「動物哀歌」所収
1967

巨象ザンバ

ザンバという巨象がいた
ぼくはその象の話なら度々聞いている
それは昔からザンバと呼ばれる象で
澄んだ夜空のように青黒い肌と
半月のように冷たい牙を持っていて
ひとりの仲間もなく
さまよい歩いている象なのだと

ザンバという名の巨象はたしかにいた
ぼくはその象の遠吠えなら度々聞いている
それが嘘ではない証拠に
そいつはタンガニイカの高原や沼地の中を
あるいはガンジスの上流の森林や
ゴビの砂漠の砂塵のなかを
実に恐ろしい巨体で
どしりどしりと歩いているのだ

ザンバの年令は幾百才と言ったか
幾千才と言ったか忘れてしまう
なにしろぼくの生れる以前からの話だから
幾才と言ったらいいか分らない
だが巨象ザンバの名を聞くたびに
ぼくは宇宙の半分を聞いてしまった気がして
度々泣いてしまうのだ
ザンバの肌はあまりにも青黒い空のようで
ザンバの牙はあまりにも冷めたくて
ザンバの耳や鼻なら
あまりにも寂寥の象らしいから

巨象ザンバはたしかにいるのだ
ぼくはその象の足跡なら度々見ている
その象の足跡は
覗けない大地の井戸のほど深々しいから
ぼくはひと目見ただけで分るのだ
そしてぼくはザンバの話なら
小さい子になら何時でもできるのだ

巨象ザンバはたしかにいると
ぼくはその象の永劫の遠吠えを
度々聞いているのだと

村上昭夫
動物哀歌」所収
1967