朝の鏡

夜来の雨が小さな水溜りを作った
それは或る朝あけの人げない郊外電車の停留所の片隅のこと。
今日も遠い勤め通いの娘が一人
すこし破れた靴を気にしながらやって来て
一番電車を待っていた。
その足元の水溜りに
娘の姿が映り
娘のうしろの朝やけの雲の薔薇が映り
うすくれないに娘の周りを染めながら
少しずつ、少しずつ褪せていった。
やがて娘はさりげなく
一番電車で消えてゆくと
水際にはしばらく空の色だけが流れた。

それから何時ものように
朝の停留所は騒がしくなり
陽はきらきらと照りはじめ
又何時ものように
何もなかったとでも云うように
水溜りは踏みつぶされて乾いていった。
あの娘も、あの雲の薔薇も
誰一人知る者もないままに消えていった。

神様が地上にそっと置いてみて
また持ち去った、あの水鏡、水溜り。

野田宇太郎
「夜の蜩  野田宇太郎全詩集」所収
1966

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